或る士官候補生との再会

こんにちは、久方ぶりの更新となります。

少し、心に留めておきたい出来事があったので書き残そうと思います。

 

先日、旧い友人と旭川で再会を果たしました。
彼は現在とある軍事教育を行う大学校の4年生であり、訓練で北海道を訪れています。
旧友とは言っても、彼との出会いは約4年前に遡るにすぎません。
それは私が前の大学を卒業し、医師を目指すために再受験の勉強をしていたときの自習塾でした。
彼は当時1浪中で、関西地方では屈指の進学校出身。学力は今ひとつでしたが、飲み込みの早さと頭の回転では、やはり抜きん出ていました。細身ながらの長身、人懐っこい微笑を浮かべながらも、瞳の奥の眼光は鋭く、初めて出会ったときから背後の威風を感じさせる若者であったことを覚えています。

 

そのような若者は、進学校の優秀な学生の中では決して珍しくはありません。

しかし、他の進学校出身の生徒と違うのは、類い稀な野心家であったこと。

 

当時から生意気で、向こう見ずな、しかし腹に一物を持っている当たりはなにか、私をして「奇貨置くべし」という思いなしを抱かせてくれる好漢でした。 

初めて会ったときから、自分とは5歳離れていたにも関わらず 、出会うべきであった旧友のような気持ちになる人間。
そういう人間とは、案外ひょんな場所で知遇を得るものです。

当時、彼は我が国の最高学府を目指していましたが、それは飽くまで人脈や世間的な評価を築くための手段であり、「ゆくゆくは政治家になり、この国を動かす」と言って憚らなかったのを覚えています。

 

私は、これまで「将来は政治家になりたい」と公言した若者と幾人か親しく付き合ってきました。しかし、彼らのほとんどは大学を卒業し世に出ると、やはり「向こう三軒両隣にちらちらするただの人」に堕ちてゆきます。私は、落胆するとともに、それはある意味、社会への正常な順応であり、健全な精神の発現であったことを確認して安堵します。政治を司る、すなわち権力を持つということの魔性に囚われ、友人が変貌してしまうのは、親しく交わるに人間としては悲しいからです。。

 

しかしながら、当時の彼には「もしかしたら、人々が世を変えようという盲目的意志に導く人間になるかもしれない」と秘かに期待せざるを得ませんでした。

彼とは、他の受験仲間とは違ってとにかくスケールの違う議論をよく愉しみました。
哲学、文学、歴史、経済、人間心理、政治の問題からファッション、グルメ、異性との交遊について、下世話にも高尚にも談論風発したのを覚えています。もちろん、勉強も張り合いましたが、空虚な浪人生活において人生の意味を真剣に問う仲間を得たことは、私にとっても、彼にとっても「刎頸の交わり」となっていたと思います。

 

結局、彼は最高学府への受験には失敗しましたが、「政治家になる手段として」職業軍人になることを選びました。私は彼に1年遅れて進学しました。彼の進学直後から、「耐え切れずに、いつ退学になるのか」と思ってヒヤヒヤしていましたが、厳しい生活規則や組織の不条理にも耐え、卒業を約半年後にも控えての再会です。 塾での別れから、幾度か再会はしていたものの、北海道では初めて。いつにも増して、精悍な顔つきと野心家めいた気魄はそのままに、日に焼けた肢体からは若き将校の風貌を漂わせていました。

 

 

ところが、酒を酌み交わしながら、半年ぶりに会う旧友は進路に向けて深い迷路に入り込んでいるように見えました。そして、「そのために生き、そのために死ぬ」何かを求めて、生き急いでいるように映りました。彼にとっては、それが国家であり、将来軍人としての矜持を担保してくれるはずだったのでしょう。しかし、その国家や軍が「守るに値する」というものか、彼は自問自答して隘路にはまり込んでいました。

 

彼はこの4年間士官候補生として、同窓を指導する立場にありました。その中で、己を犠牲にして組織のため滅私奉公する塗炭の苦しみを幾度となく感じていました。—やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、 ほめてやらねば、人は動かじーその言葉の意味を日々噛み締めていたと述懐しています。

 

けれども、軍隊といえども愛国心を持ち、組織に忠誠を誓う人間に属する少数派だと悟ったとき、彼は、マジョリティ、すなわち「鉄砲玉の打てる小役人の集まり」の上に立ち、そうした群衆に指図を出す仕事にいい知れぬ疲れと諦念を抱いてしまいました。「公務員として安定している」「災害が起こったときに人を助ける仕事がしたい」という動機で軍や大学校に志願してくる生徒はいても、「国のために命を懸けて働きたい」「海外で同盟国や日本周辺で有事が起こったら真っ先に前線に行かせてほしい」と思っている生徒は、本当に少ない、とも聞きました。(それはイラク戦争時の派遣忌避にも現れています) 

 

「所詮戦争ごっこしかできないアマチュア集団」、「鉄砲玉の打てる小役人の集まり」、「政治の話はタブーだからできるだけ考えない方がよしとされる」…確かにそういう批判が内部から出ることはある意味「健全」と言えるでしょう。(けれども、そうした状況に居心地を覚えている職員も大勢いるのもまた事実です)

 

今まさに、このような巨大な集団が抱えるニヒリズムが彼をして、一種の虚無的な諦念に駆らせようとしてしました。

 

 

私の当代の思想の主要な一断面は、これを要約すれば次ぎのようであった。世界は真剣に生きるに値しない(本来一切は無意味であり空虚であり壊滅するべきであり、人は何を為してもよく何を為さなくてもよい)、── それは、若い傲岸な自我が追い詰められて立てた主観的な定立(テーゼ)である。人生と社会とにたいする虚無的な表象が、そこにあった。時代にゆすぶられ投げ出された(と考えた)白面の孤独な若者は、国家および社会の現実とその進行方向とを決して肯定せず、しかもその変革の可能をどこにも発見することができなかった(自己については無力を、単数および複数の他者については絶望を、発見せざるを得なかった)。おそらくそれは、虚無主義の有力な一基盤である。私は、そういう「主観的な定立(テーゼ)」を抱いて、それに縋りついた。そして私の生活は、荒んだ。 ── すでにして世界・人生が無意味であり無価値であるからには、戦争戦火戦闘を恐れる理由は私になかった。そして戦場は、「滑稽で悲惨な」と私が呼んだ私の生に終止符を打つ役を果たすであろう。 —(大西巨人神聖喜劇』第1巻)

 

 

「面倒くさいことを現政権や政権与党の偉い人間に任せておけば、仕事がやりやすいと上の人間は考えているけれど、下の人間はそこまでついていけないのです。だから思考停止した方が楽なのです」

 

私は、この言葉こそ幹部候補生として、実にリアルな心情吐露だな、と思いました。リーダーとしては、思考停止した人間を動かすことに長けている方が能力を十全に発揮できます。構成員の余計な思考は、組織の合理的な目的遂行にとってはマイナスに働き、それは即組織の損害や敗北に繋がりかねません。また、官僚組織の最たる軍では、個人のタスク処理は全体への奉仕であることが前提です。全体への奉仕に適っていれば、個人は余計な思考をする必要がなく、上に立つ一部の人間が意思決定をすればよいのです。 しかし、思考停止は組織の硬直化や、風通しの悪さを生み、イノベーションを阻害してしまいます。個人が萎縮し抑圧された組織では、有事の際の機動力や士気にも影響を与えることが必至です。


公が先か、それとも私が先か—そうした命題は何らかの組織に従属する人間なら、一度とならず自問自答するところでしょう。彼もまた故郷に恋人を待たせている人間であり、愛すべき家庭を営みたいという人並みの欲望を抱いています。

 

 

—男に生まれたからには大義のために生き、死ぬべきではないか。しかし、守るべきは「国家」という曖昧模糊な象徴ではなく、いつも脳裏を過る肉親であり友人であり、家族、恋人ではないのか。だとすれば、何のために俺はここにいるのだろう?ー
 

 

さて、旧友はこうしたジレンマや不条理に苦悩しつつも、組織の中でどのように自己陶冶していくのか。私は一門外漢にすぎないので、生暖かく見守るしかありません。しかしながら、こうした隘路の中で揉まれ、集団、組織の不条理を徹底的に見つめ、信念に基づいて他者を指導しようと冷静沈着に決意したとき、彼は真に「政治への目覚め」にまた一歩近づくのだと思うのです。

 

人々の頭脳をあやつることを熟知していた君主のほうが、 

人間を信じた君主よりも、結果から見れば超えた事業を成功させている ―
(『マキャベリ語録』)

 

 

 

怒りについて

(以下の文章は筆者が当時20歳、2006年11月30日に投稿された日記を一部編集した記事です)



昨日、告白すると、私はある人々に対して、大変な怒りを覚えた。

立場の違いや、その場の雰囲気や、

もはや自分自身の理性までもをもないがしろにして、

その怒りをぶちまけたかった。

目つきがやおら鋭くなり、息遣いが荒くなり、背筋が硬直し、

無意識に舌打ちをして、彼らに今にも襲いかからんとしていた。

怒鳴り声を張り上げ、彼らの顔面に平手打ちを食らわせたら、

どんなにか胸がすくだろう、などという残虐で野蛮な思考が、私を支配しかけていた。

 

それはもう、狂気だ。錯乱だ。

私は、全く別のことに集中しなければならないのに、

そのような愚かで蒙昧な、そして著しく無思慮で、倨傲な…

 

ああ、形容するのが全く馬鹿馬鹿しくなって、

吐き気を催すほどの怒り!!

 

 

 

私は、その中で早く刑期を終えて出獄せんと欲する焦りに、

瀕死の理性の寄る辺を何とか見出していたのだった。

 

 

多分、その場に居合わせた人には、

私の異様な緊張や苛立ちが知られてしまったことだろう。

私は、当座を凌ぐに、もうそれはかつてないほど必死だったのだ。

 

 

これほどまでに、他者に対して覚えた凄まじい怒りは、

ここ数年来は全くなかったと、断言できる。

くどいようだが、相手への侮蔑、罵声、暴言が、

もう今にものどの辺りから威勢よく飛び出すところだった。

 

 

今思い返してみると、それはひどく大人気ない、

子どもじみた情念からだし、

どちらかと言うと、じぶんの方に非があるのではないかと思われる。

しかも、全く瑣末で、もし怒りが噴出していれば、

他の人々から見れば、きっと私の方が幾分かは、

非難されるべき理由なのだ。

 

 

 

だが、その時の私の、猛り狂った情念に言わしめれば、

全くもって怒りの対象に対しては、

「奴らの言うこと、成すことの一々が不愉快で、気にいらず、

その存在を今すぐここから抹消すべきである、

さもなくば、奴らは絶対に許しておけないから、

ここでこの私の罰を下さねばならぬ!!」

というように声高らかに、宣戦布告を言い渡す具合になるだろう。

そして理性の出る幕を、さっさと閉じてしまい、

己が独壇場に、いい気になってふんぞり返っているところであろう。

 

彼(怒り)が、ひとたび、私の体内から超越すると、

それは、留まることを知らないように思う。

いや、それはもちろん彼の性格によるのだが…

 

 

 

私は、自分でも言うのはなんだが、

まあ滅多なことでは、本当に怒りはしない。

大抵は、へらへらして軟弱ぶりを発揮しているか、

さもなくば無意味に鷹揚としているか、

まあ後は、これもまた理由もなく憂鬱に沈んでいるか、だと思う。

(ひとが私をどのように判断しているかは、分らないが、

 まあ私としてはそんなところだ)

 

 

私は、自分が本当に怒ってしまったことを鮮明に覚えている。

なぜかと言うとそれは、とても数が少ないから、数えるほどなのだ。

多くの人の前で、私が本当の怒りを見せたのは一度だけだ。

これは、最も私の記憶に深く刻み込まれている。

 

 

怒りに至ったあらすじは、こうだ。

私が高二の時に、部活で次回の定期演奏会を開くに当たり、

選曲をどうしようかという話になった。

私は皆に曲を参考にして欲しいという好意で、

音源のCDを何枚か焼いて、これを全員に回してくれとお願いした。

CDはまあ、ほとんど皆が聴いてくれて、

参考になったと言ってくれた。

 

暫くして、私がミーティングでそのCDを返して欲しいとお願いした。

ところが、一つとして返ってこない。

訊いてみると、誰が持っているのかさえ把握できていないという。

 

私は困った。あれは今の部員にあげるために造ったのではない。

高校から吹奏楽を始めて、曲情報に疎い部員達のために、

これからも保管して、貴重な財産として欲しかったからだ。

 

誰かがその時に、

「どうせもうデータはあるのだから焼けばいい」とか、

「俺失くしたみたいだから、もらおう」とか、

陰で言ったのを私は覚えている。

 

 

その時、私は初めて皆の前で激しい怒りを露わにした。

何を言ったのかは殆ど覚えていない。

ただ、特定の個人を名指しで非難したりはせずに、

部全体のあり方にやり場のない、哀しい怒りをぶつけたように思う。

だがあの時は、論理的な振る舞いをしていなかったのは事実だ。

 

最初は怒りに身を委ねる気はなかったが、

段々と、皆の前で指弾を重ねていくと、

その発せられた言葉言葉が、私を激情に駆り立てた。

 

頭に沸騰した血液が遡上し、瞬きが出来ぬほどに目が充血を始めた。

身振り手振りは、そこいらの選挙前の政治屋気取りで、

ひどく大げさになり、口角泡を当たり構わず飛ばし、

あまりに早口でまくし立てたものだから、舌を噛み切りそうになった。

もはや、私は誰にも止められはしなかった。

 

だが…

私を見る皆の顔に、私の視線が注がれた瞬間、

私でない私は、止んだ。

 

皆、今の私が本当の私であるのかが判別できぬと

言わんばかりの困惑を浮かべ、

それから、贖罪のために打ちひしがれた有様だった。

 

 

私は、堪えきれずに音楽室を後にした。

 

 

 

それから、独りで何やらわけもなくひとしきり泣いた、と思う。

それは、皆に対する申し訳なさであり、

自分の怒りというこの忌まわしい情念に対する、恐怖だった。

人間、誰しも我を忘れて、別人のようになることが、

あるとは聞いていたものの、

この怒りというものに対しては、本当に、私の経験からそう思う。

 

私はそれ以来、もう人前で自分の本当の怒りを見せるのは、

金輪際よそう決めた。

 

 

だが、この感情にはごく稀に襲われることがあるから厄介だ。

昨日のように‥

 

一体、この化け物とどう対処したらよいのだろうか…

 

ここは、先人の智慧に助けを求めてみよう。

 

 

アリストテレスはこう述べている。

 

「然るべき事柄について、然るべき仕方において、然るべき時に、然るべき間だけ怒るひとは賞賛される。かかる人は『穏やかな』な人といえよう。賞賛されるのは彼の穏やかさなのだからである

(ニコマコス倫理学 1125b32)

 

 

アリストテレスによれば、人間は、どちらかというと怒りに関しては、

過度に向きやすい傾向があるものの、かといって、

怒るべき事柄に対して、全然怒らないひとや、少ししか怒らない人は

「意気地なし」だから、非難されるべきだという。

 

 

どうだろうか。

 

確かに、侮辱されて怒りを覚えない人には、私も共感は出来ない。

これは「キレる」のとはまた別の話だ。

だれもが見て怒るべきことに関して怒るのは、

当たり前だと私も思う。

 

だが、客観と主観の線引きが難しいのが問題だ‥

 

モンテーニュも怒りについて興味深い記述を残している。

 

「われわれ自身も、立派に振舞うためには、われわれの怒りが続いているあいだは、召使いたちに手を出してはならないだろう。脈が激しくうち、興奮状態にあると感じるあいだは、やりとりをあとへ延ばそう。落ち着いて冷静にかえったときには、ほんとうに、物事はちがったすがたでわれわれに見えるだろうから。怒っている時には、命令を下すのは情念であり、ものを言うには情念で、われわれではない」

 (モンテーニュ『エセ−』「怒りについて」)

 
問題は、このマグマのような「情念」なのだ。情念という悪魔に乗っ取られると、われわれ、すなわち理性など簡単に雲散霧消してしまう。

 

「怒りは、隠そうとすると体内に入り込んでしまう。(中略)

私は、そのような賢そうな顔つきをするために私の気持ちを苦しめるよりはむしろ、多少は場にそぐわなくても、召使の頬に平手打ちを一発食らわせることをお勧めする。私は自分に損をかけていろいろな情念を抱きかかえているのよりは、それらをおもてに表し出すほうがいい」

 (モンテーニュ、同上)

 
…え、結局情念に負けて暴力をふるっちゃうの?
ちょっとちょっと、それはいくら何でも不味いだろう…


召使いだったらいいかもしれないけどさ(いや、暴力はダメ、絶対)、先輩や上司や子どもや配偶者にビンタしたら、相手も自分も傷つくし社会生活が破綻しかねないぜ…

 

「私が怒るときは、できるだけつよく、しかしまた、できるだけ短くひそかに怒る。かなり激しく混乱はするが、あらゆる種類のののしり言葉を手当たり次第になんでも構わずどんどん投げつけたり、また鋭い言葉を、それが相手を最も強く突くと思えるところに置くよう気を配らなかったりするほど乱れてしまうことはない。私はふつう、怒るのに舌だけしか使わないからだ」

 (モンテーニュ、同上)

 

うむ、アンガーマネジメントとして王道ですな。ちょっと安心。

我慢は良くない、というのも全く一理ある。

しかし、怒る相手は召使だけではあるまい…ね?

 

モンテーニュも高級官僚(法官)だったから、頭にくるクソ上司とかトチ狂った訴訟当事者を相手にして、さぞかしイライラすることがあっただろう…そんな時に我慢して大丈夫だったのかな?

どうやって、彼は怒りと向き合っていたのか。
怒りには対処療法しかなくて、根治はやっぱり無理なのだろうか?

そう思いつつ読み進めていくうちに、私は彼のモラリストとしての本領発揮ぶりに、またしても大いに感銘を受けた。

 

「しかし、もし怒りがわたしの先手を取り、ひとたびわたしをとらえれば、それは、どれほど空虚な原因からきたものでも、私を連れ去ってしまうのだ。それで、私は、私に反論してきそうな人々と取り決めをする。『私のほうが先に興奮したと気がつかれたら、まちがっていようが、正しかろうが、私にそのまま言わせておいてください。私のほうもかわって同じようにしますから』と。嵐は、いくつかの怒りが競り合うときにだけ生ずる。怒りはお互いに相手から呼び起こされるもので、同時には生まれてこないものだ。ひとつひとつの怒りに、それぞれが走っていく道筋を与えてみよう。そうすればわれわれは常に平和でいることになる。有用な命令だが、実行は難しい」
モンテーニュ、同上)

 

 

 

怒りに道筋を与えること、これはやはり大切なことだ。

とっさにはなかなか難しいが、それが理性的であるためには、

必要条件になってくるのだろう。

 

怒りに与えてやるのに必要なのは、我慢や爆発ではなく、

それを冷静に見つめて逃がしてやる手立てだ。
心の平和を導くには、怒りの当事者である自分や相手ではなく、
怒りという情念そのものに向き合うことなのだろう。




さて今日、セネカ『怒りについて』を買った。

(注:これを期に筆者はセネカを始めとするストア派哲学者に心酔していく)

 

まだあまり読んでないのだが、少し引用してみよう。

 

「何ゆえにわれわれは、まるで永遠の世界にでも生まれたかのように、いつも好んで怒りをぶちまけ、きわめて短い一生を駄目にするのか。何ゆえにわれわれは、高貴な楽しみのために費やすべき日々を、好んで他人の悩み苦しみのために向けるか。そのような財産の浪費は認められないし、また時間の損失も許されない」
(セネカ「怒りについて」)

 

 

 

ああ、そうか、そもそも怒っても本当にろくなことないんだね…

怒ってもいいことなんて一つもないと諦めてしまえば、
どんなにカッとすることであっても、怒る気力さえなくなっちゃう。


うーん、でもそうはいっても怒りたくなるようなクソな事件は人生には往々にして事欠かないからなあ。。

で、結論、怒りの解決に関してはこれが一番しっくり来た次第。
根本的な解決ではないけれど、「予防治療」には最も的確だろう、と。

 

 

 

「自分で怒りを抑えるには、他人の怒る姿を静かに観察することである」

(セネカ、同上) 

 

 

 

 

 ―必然的に死ぬために、あるいはそれでも哲学するために―(3)

 自殺した彼と僕はそれほど親しかったわけではない。

葬儀には出席したけれど、個人的に深い哀悼の意はなかった。

それは祖父の時とあまり変わらない。

彼がなぜ自ら命を絶ったのか、どんな事情があったのか、

それは僕の興味をあまり引かなかった。

(家庭の事情で悩んでいたとかなんとかという噂があったらしいが)

そんなことはもうどうでもよかった。

ただ、彼の壮絶な死に顔(幾分修復はされていた)

を見て焼香を上げた際は、以前の興味本位な軽薄さを侘び、

静かに冥福を祈った。

僕が彼のためにしてやれるのはそれくらいのことだったと思う。

 

しかし、学校側のその後事件への対処を見ていると少し哀しくなる。

事件が一通り過ぎると、本当に何事もなかったかのように、

「暇潰し」の日々が再開された。

仏教系の学校で、「宗教」という授業があるというのに、

なんらこの事件に触れて考察をすることもなく、

あいもかわらず仏教の教条や仏教史を延々とやるとは。

学級担任の教師達も、一月もすればもう忘れたかのようだ。

(毎年墓参をしているらしいけども…)

それから、同級生達も…

そんなものなのだろうか。

みんなの記憶から忘れらてしまうのが、本当の「死」なのだろうか。。

 

 

僕はこの事件を決して忘れることはできない。

中学の卒業作文で、記憶を形にしてみたが、

どうもそんなことを書く人間は僕一人のようだった。

(皆スキー合宿や部活動、修学旅行といった愉しい「思い出」 ばかり書く。まあ当然ながら、不愉快な思い出など

 残したくないのだろうが…)

ある教師には、「こんなことをわざわざ書きやがって」と暗に批判された。

なぜだろうか。

そんなにみんな死は「避けたい」ものなのだろうか。。

 

死ぬのが分かっている生き物は人間だけだとしたら、

死を考えないのは全く損な生き方ではないだろうか。

それは昨年最後の日記でも書いたとおりだ。

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=306185971&owner_id=4554389

 

今でも、僕は(ほぼ毎日)死について考えることにしている。

ある哲人の箴言にあるとおり、

「生涯をかけて学ぶべきことは死ぬことである」という信念は、

全く揺らぐことはないように思う。

いや、死について思いを巡らすたびにますますその考えは、

強固なものとなっているし、現に今もそうだ。

 

僕がなぜ、哲学そして倫理学を志したかも、

もう大分とはっきりしてきたし、これ以上仔細に語る必要はないだろう。

いや、誰かにそれを説明したくて語ったのではなく、

僕自身がそれを強く願っていたからだ、ということが漸く

今にしておぼろげではあるが、分りつつある。

これは今まで僕が未熟ながらおこなってきた思索の中で

最も有益なことではないか。

そうだとすれば、哀しみから出発して、迂遠ながらも

今日はある到達点に至ったじぶんに、

手前味噌ながら、謙虚に祝意を添えたい。




僕は確かに死ぬ。

しかし、そのまえにこの世の「真・善・美」(美は、また前二者と

性格を随分異にしているが、ここでは敢えて触れない)

をじぶんなりに探究してしておきたい。

どれだけ探究すれば、満足するだろうか?

いや、決して満足はしないろう。

そして、満足せずに、失意のままに死ぬだろう。

それでも、いやそれだからこそ、僕は己の哲学を求めてやまないのだ。

 

いまや僕にとって世界は真剣に生きるに値するものとなりつつある。

 

では真剣に死ぬことも、また必然ではないだろうか。

だとすれば、己の哲学が求めるところに従って生きてみよう。

僕が生涯をかけて学ぶべきものは、つまるところ、それだ―

―必然的に死ぬために、あるいはそれでも哲学するために―(2)

そうは言っても、段々と騒ぎが大きくなると、

こちらものべつそわそわしてくる。

退屈な授業を妨害してくれる愉しい暇つぶしの種が出来たから、

もう居ても立ってもいられない。

みんな、それが今一番の関心事になってしまっている。

堪えきれずトイレを言い訳にして席を立とうとする者がそのうち出てくる。

寝ていた者もこの時ばかりは、周りと私語に励みだす。

そのうち授業は終わってしまうか、いやまだ終わらない。

まだ始まって十分だ。長すぎる、、永遠だ。。

 

 

「…お前ら、静かにしろ!」

 

 

教師がだみ声を発するやいなや、やにわに校内放送が入った。

最初の数秒はスピーカーから何も声が聞こえない。

事態の重さを伝えるには、それで、もう十分だった。

 

 

 

「生徒が、三階の窓から転落しました。

 今、救急車を呼んでます…」

 

 

 

よく覚えていないが、どのような内容が告げられたのか、そして

事態を判然に呑み込めるにはそれを反芻する必要があって、

僕はもう猿人と原人に興味を抱く暇などなかった。

こっちの方が面白そうだし、みんなの顔も色めきたっていたのだ。

だから、僕も乗った。

誰が落ちたのか、なぜ落ちたのか、などと、

下らない井戸端談義に加わって、妄想を膨らます連中の娯楽に

付き合うことにした。

気付いたら、皆がそれをやっていた。もう授業どころではない。

にもかかわらず、教師は授業を強引にも続けようとして、

それが余りにも馬鹿げたことであるのは、

恐らく教師自身もよく分かっていたのだけど、

(いや、不安げな目配せを教室に彷徨わせ、さっきまで威厳を

備えていたのに、今は怯えた小鹿のような表情を隠すことが

出来ない彼はそうすることしか出来なかったのだと思う)

1人で滑稽芝居を打ち始めた。

実に、奇妙な空間が演出された。

 

まあ、それでももう僕らは十分愉しかった。

教師の饒舌な漫談を肴に、噂話に精を出したが、それにも飽き足らず、

「さっさと現場を見ようぜ」という無邪気な好奇心に、

誰もが心を惹かれていた。

 

 

そのうち救急車が来て、より一層外が騒がしくなり、

次いで校内放送が再びアナウンスされて、授業の中止が下された。

もう好奇心を満たすには、誰もが我慢の限界にで、

何人かは教室の外に飛び出して現場に直行した。

その中に、怖いもの見たさという、

愚かな興味本位の熱に浮かされた僕も、なぜか加わっていた。

 

 

 

(これより、稚拙ながらグロテスクな表現を含みます。

 気分を害されるのを好まない方は読まれないかもしれません。

 ですが、できるだけ読んでもらいたいと思います。

 これは、身勝手なお願いですが…)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

彼は、もう居なかった。

そう、もう運ばれて数分が経とうとしてた。

 

僕は、しかし、現場で何が起きていたのか見知った。

 

 

鮮血があたり一面に拡散し、血生臭い匂いで充満していた。

あまりの凄惨さに吐き気がしてくるほどだった。

僕は、しかし状況を冷静に認めようとした。

そして、彼が頭部から直撃し、脳漿が破裂するほどの

衝撃を受けたことを悟った。

 

 

頭蓋は恐らくひどく破損したことだろう、

奇妙な切片は脳の一部だろうか。。。

 

 

彼が転落した場所は、奇しくも面積がそれほど広くなかった

コンクリートの上だったが、にもかかわらず、その外の、

土の部分まで広範囲にわたって鮮血がべっとりと飛び散っていた。

低い雑草が真っ赤に染まり、

記憶では少し離れた自転車置き場まで到達していたと思う。

 

 

 

 

そう、あとになってそういう細かい記述はできるのだけど、

事態を目の当たりにしていると、ただ「見る」ということしかできない。

 

 

 

 

 

 

 

ああ、これが死というやつか。

 

 

 

 

 

 

 

一切の価値判断をすることができず、僕はただ呆然とするしかなかった。

今も、ただ当時の記憶を呼び覚ましてみると、本当に呆然とするしかない。

たとえ、その直後には様々な感情や理性が生起したとしても、

あの光景自体については、僕は何も言うことができない。

 

 

 

 

不思議なことに、凄惨な場面を見た後で、

なぜかボンヤリと夢をみている感じがした。

 

 

不謹慎ながら「リアルな」死に初めて接して、

僕はどうしたらよいか全く分らなかった。

(祖父の死は、入院後でしかも僕が幼かったこともあって、

 「リアル」ではなかった。

 「お星様になった」と思えばそれで僕の中では物語は完結していたのだ)

再び教室に戻って、暫くして彼の死を伝える放送が流れ、

その日授業は全て中止になり、早退となった。

 

早く帰っても何をすることもなく、

家族は僕が無事で何よりとか言っていたけど、

そんなことはどうでもよかった。

今日起こったこと、それから目の前でじぶんが見たものは

一体なんだったのか、そんなことを延々と考えていたが、

なぜだか夜に急に泣きたくなって、少し泣いた。

怖かったのだろうか?それともじぶんの思考で

把握しきれない事態に困惑したからなのだろうか?

それとも…?

今思い出してもまったく分らない。

ただ、死についてこんなにも深く考える契機を与えて

くれたには間違いないだろうが。。

 

 

 

 

 

 

人間は、必然的に死ぬ。かたちあるものは滅びる。

 

死は避けられない、明日にでも死ぬ。

 

死んだら終りかもしれないし、死後の世界があるかもしれない。

 

でも、死によって、人間はこの世界での存在が途切れる、

 

それは間違いない。

 

だとしたら、生きるってなんだ。

 

そんなものに意味があるのか。

 

 

 

 

 

 

泣きながらちょっとずつ考えた。

その日から断片的に考えるようになった。

 

それから、僕は「暇潰し」をあまり愉しめなくなった。

暇潰しは、暇潰しで確かに愉しいままだけど、

物足らなさを段々と感じるようになった。

「暇潰し」で本を読んでいると、なぜだか、じぶんに腹が立ってくるし、

あとでじぶんが「暇潰し」をしていたと気付くと、

とても残念な気持ちになってしまう。

なぜだろうか。

…分らない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―必然的に死ぬために、あるいはそれでも哲学するために―(1)

(以下の文章は2007年2月23日未明に書いたものです)

 

 

哀しい。

 

 

まさしく「索漠とした」という言葉を使いたくなる気分だ…

 

日記を拝見に巡回していたら、

奇遇なことに(いや、この言葉は不適切かもしれない、

なぜなら「奇遇」という言葉は本来は、何かかしら積極的な

好運を意味する文脈で使うのが妥当だと思われるから)、

今日マイミク2人の方が共に友人を亡くされたということを知った。

 

嗚呼、死が、死がまた捕らえて離さない。

またしても死について、深く考える機会を得るとは。。

 

 

もはや避けては通れまい。

 

 

今日は、今日こそは書こうと思う、あのことを書こうと思う。

本来はマイミクが100人を突破した時点で書こうと思っていた

ことだ。

余りにも重たすぎる話題になるため、普段は面と向かって言えない。

しかしそれでも私という人間を、少しでも知ってもらうためには、

是非ともお話しておきたいことなのだ。

 

 

どうか、この日記をここまでご覧の皆さん、

長くなるかもしれないけど、是非とも今日は最後まで読んで欲しい。

身勝手なお願いを今日だけは、どうか許して欲しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あれは今からもう7年も前になる…

僕が中学一年生の時のことだ。

 

そう忘れもしないもう直ぐ、「その日」が、

彼の7周忌がやってくる。

 

当時の僕はといえば、中学一年の終わりということもあって、新しい環境にも随分と慣れ始めた頃だ。

中高一貫の学校だから、受験の重圧とも無縁で、

この先の長い「中だるみ」をどう過ごすか、

言い換えれば、この永遠とも続きそうな退屈な日常を、

いかにして暇を潰すか、勉強にもさして興味がわかず、

かといってこれといって打ち込める趣味もなかったので、

下らないことばかり考えて、毎日を蒙昧に過ごしていた。

 

思春期真っ只中とはいえ、男子校だから色めいた話もない。

(もちろん、性の知識に関しては、なぜか皆、

 他の同年齢の人間以上を誇っていたように思う、気のせいだろうか)

類は友を呼ぶが如く、めいめいが気の合うグループを作っては、

ある者たちはケンカやいじめで今日その日を愉しみ、

別のある者たちは、身内にしか通用しない言葉で

マニアックな談義に延々と飽きることもなく花を咲かせる。

孤独な者は、孤独を癒してくれる二次元の世界に没頭する。

 

まあ、みんな要は「暇潰し」だったのだ、と思う。

実際暇は暇だったから、しょうがないことだ。

 

僕自身は、といえば、中学の時は広く浅い付き合いをしていたので、

そのどれも経験していたし、まあ悪いことも結構したように思う。

(人のものを盗んだり、殴ったりといったことはしてないけど…)

 

毎日が暇であることはただ愉しかったし、倦むことも余りなかった。

刺激には乏しいけれども、同じ環境が未来永劫ずっと続くのは

ある意味で究極の幸福ではないだろうか。

ここに甘んじていること、それだけで脳はとろけてしまう―

ユートピア、桃源郷といった類は、

「永遠性」という概念をもつことができるが、

そこには決して到達できない、哀しい人間の有限性を

逆説的な形で提示してくれる代物だ。

いやしかし、そういう観念自体持つことができる人間は、

お気楽だが、最高の幸せ者に違いない。

そうだ、この俺も―

 

閉じた環境では、ものを考えるということ自体が面倒になる。

ものを考えることなど不要だし、考えても役に立たない。

変な考えでも起こすと、変な目で見られるのがオチだ。

まあ、それでもものを考えたいなら、言葉遊びで十分で、

本を相手に言葉遊びという「暇つぶし=娯楽」に興じれば、

それで食欲とか性欲同様に事足りる。

背伸びをして難しい哲学書とか、文豪ものなんか読んでいれば、

阿呆でも何かが分った気になって、嬉しくなる。

じぶんだけに、人には見えていない「世界」が見えてくるのが、

堪らなく愉しくなってくるからだ。

それだから、厄介な傲慢が生まれる。

もうそれについては言うまでもないだろう。

まあそれも口に出さないで、じぶんの中で完結していれば、

それでいいのだ。全く問題はない。

むしろ、自慰と同じくらいに健全なことだ。

何度も言うように所詮は全て暇つぶしなのだ。

殴り合いのケンカや、エロい妄想とさしてかわらない。

「世界」を少しばかり把握したって、未だ彼にとっては

世界は真剣に生きるに値していないのだから…

 

 

 

 

 

 

そうそう、それで、事件が起こった。

 

 

 

3月某日の1時間目。

歴史の時間だった。

 

「春眠暁を覚えず」とは言うものの、中学校時代の僕は表立っては

至って真面目で、授業の最中に寝るなんてことはなかった。

(高校で何故あんなに堕落したのだろう…

 まあそれは今はどうでもいいことだ)

 

ああ、あの時は確か世界史分野の最初の分野を勉強していた。

そうだ、アウストラロピテクスが出てきた!!

いや~歴史は「暇つぶし」の勉強に最適だったから、

本当に大好きで、先生も面白くって、一生懸命配布されたプリントに、

メモを書き込んでいたっけなあ。

そうそう、丁度、授業が始まってすぐだった。

土曜の1限でも、最高に集中していたあの時…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

授業開始直後、窓の外、しかもそれ程離れてはいない地面で、

何かが「ゴブッ」とい鈍い音を立てたような気がした。

 

僕は耳はいいほう(だと思ってる)

それでも、まあよくある空耳の類か、もしくはまだ外でふざけをしている

連中がボール遊びにでも興じていたのだろう。

さして気にすることもない。よくあることだ。

 

 

しかし、その直後廊下の一番向こう側の教室がにわかに騒然としたのが、

こちら側にも伝わってきた。

間を措かずして、階段の辺りが慌しいことになった。

 

いや、それもよくあることで、誰かが「問題行動」をやらかして、

教師の不興を買ったか、教師が生徒にテストでも予告して、

生徒が生意気に反発をしたかだろう。

教室の騒がしさも、こんな環境ではよくも悪くも、

「馴れ合い」であって、ジタバタ悲喜劇は日常茶飯事だ。

全く取るに足らないが、ないと困る暇つぶしの一環。

 

 

僕のクラスと言えば、隣の喧騒をよそに、淡々と授業が進行していた。

強面の教師の影響も相まって、たとえ何が起きようが、

授業は時間内はきっちりと行われる手はずであった。

それが、ルールで、ルールには誰も抗えない。

絶え間ない日常は、決して乱されてはならない。

【書評】『決められない患者たち』

決められない患者たち

決められない患者たち

 

GW中は最終日以外毎日飲んでましたが、積読もすこしは消化しました。

たまには書評なんかもしてみましょう。まあ、ビブリオバトルで紹介するほうがすきなんですが笑

 

この本は名著『医者は現場でどう考えるか』の著者の最新作ですが、内容は医療コミュニケーションにおける意志決定の問題を取り扱っています。
邦題はやや誤解を生むかもしれません。

原題は『Your Medical Mind - How to decide what is right for you』となっています。


本書は医療コミュニケーションだけでなく、リスクコミュニケーション、行動経済学、医療倫理、意志決定論などに関心のある方にはお勧めできるでしょう。


以下、この本で重要だと思われるポイント。

・治療方針を策定する上で、患者自身だけでなく医療者自身の信念を分析する必要がある。

→「信じる者」vs『疑う者」
「信じる者」は、問題解決策が明確に存在すると考えて治療に臨む。一方「疑う者」は、強い懐疑主義を持って全ての治療オプションを検討する。極めてリスク忌避的であり、副作用や治療の限界にも敏感である。

→「最大限主義者」vs 「最小限主義者」
「最大限主義者」は自分の健康管理に関して積極的であり、「ほとんどの場合、多ければ多いほど望ましい」という信条を持つ。「最小限主義者」の人々は、治療を出来るだけ回避する。どうしても治療が必要となった場合でも、少ない種類の薬を最小限服用し、最も控えめな手術あるいは処置を受けることを選ぶ。

→「自然志向」vs 「技術志向」
自然主義志向」の人は代替医療や自然療法に積極的であり、自然治癒力を重視する。その対極が「技術志向」で、新薬や革新的治療法を生み出す最先端の研究成果を自分の治療方針に取り入れようとする態度である。

・治療のリスクは本来極めて不確実性に富むのだから、必ずしも統計的データが意志決定に役立たないことがある。

→ 副作用や合併症、痛みなどのリスクを過大に見積もる、客観的で母数の多いデータよりも「友人、知人の話」を信用する、信念と合わない治療方針を受け入れて失敗した場合に後悔することが少なくない、といった意志決定の研究成果は示唆に富む。

・現状行われている終末期の意思表示(≒リビングウィル)には根本的な欠陥がある。

→ 健康な状態の時に将来の困難な状況を想像するのは困難。例えば、延命措置拒否という方針が覆されることが少なくない。不幸な状況に陥っても人間は「生きようとする」適応力を発揮する。

・「患者中心の医療」という欺瞞

→ 医学は不確実な科学であり、「どんな治療がベストか」といった問いに単純に答えることはできない。患者も医療者も個々に信念があり、治療の意思決定にはある程度時間をかけて信頼性を構築し、調整する必要がある。リスクの計算可能性は限界があるから、標準化された医療「システム中心の医療」には限界がある。リスクを膨大なデータとして分析して、患者に情報開示して意思決定を一任する「患者中心の医療」は実のところ、効率一辺倒の「システム中心の医療に他ならない。



とまあ、長くなりましたが、具体的な患者ー医療者のルポタージュが中心なので非常に読みやすいです。
現場で働くようになってからまた読みたいですね。

それと、もし自分の周りに大病を患ったり、重大な治療上の選択に関わっている人がいたら勧めたいと思いました。


「重要なのは治療に関しての志向である。その志向を基に、自分の価値観、生き方にあった良い治療法を選ぶことが可能になるのだ。そして自分の志向の理解は、自分自身の考え方を振り返ってみることから始まる」

これって、治療以外にも働き方とかライフスタイルにも言えることだと思うのです。
治療はあくまで結果ではなくプロセスなので、その方針に人生の過ごし方がそのものが反映されるのでしょう。


「最も望ましいプロセスは、医師と患者の間の『共有された意思決定』と呼ばれる。治療のリスクと利益の情報を一緒に吟味したした後、患者の気持ちと志向に合わせて治療をカスタマイズする、ということだ。自分の意向を理解した主治医とともに考え決断するということは、決断の重荷を分かち合い、自分が将来後悔するリスクを減らすことを意味するのだ」

患者はカスタマー(顧客)ではなく、パートナーであるという認識を双方が持つべき、ということになりましょうか。

僕もこの考え方には心から同意します。

 

優しい止まり木

一昨日訪れたbarのカウンターで、隣で酔いつぶれて寝てしまった中年男性がいました。


オーセンティックなbarでそんな失態をやらかすのは無粋の極みですし、僕はどうしても好きになれません。
例えどんな事情があるにせよ、マナーというものは守るべきだと思います。

しかし、流石はプロのバーテンダーというもの。そういうお客さんにも、優しいのです。
寝冷えてしまわないようにそっと膝掛けの毛布を差し出されます。
時折発する呂律の回らない言葉でも、文脈をつなぎ合わせて何とか対話をされます。

もしかすると、その中年男性は何かしらの問題を抱えて、酷い孤独を感じながらbarの扉を叩いたのかもしれません。今日だけは酔い潰れてしまいたかったのかもしれません。
そう言えば、寝顔の目にはうっすらと涙が浮かんでいたような…

 

人が酒を求め、そして人を求めて、来るbarのカウンターテーブル。
bar tender(優しき止まり木)は、その人を決して否定はしません。
とはいっても、積極的に肯定する訳でもなく、あくまでも暖かい目で見守り、時には影ながらアシストしてくれます。

…そう言えば、旭川に初めて来て風邪を引いてしまったときに頂いた、生姜のスパイスの効いたモスコミュール(これは、別のbarで「何か、体が良くなるものを」と、お願いして作ってもらいました)の味を思い出します。

風邪の寒さよりも、まだ見知らぬ土地で1人で風邪になってしまった、そのことがより一層「こころ渇き」を催していました。バーテンダーの方は、そんな僕のこころを、そっとうるおしてくれました…

 



声に出せぬ、孤独、生きにくさを感じてしまっている人に、多くは語らずとも心地よく過ごせる時間と空間を提供できること。
それはプロではなくてもできる仕事であるけれども、人任せには出来ず、他の誰かではなく「私」の仕事であるともとらえられないでしょうか。

目の前に苦しんでいる人がいても、そういう余裕を失ってしまっている「私」ならば、いつかは生きにくさを得て苦しむ側に自分が回ってしまうという想像ができないでいます。


「優しくなければ生きている価値がない」といういう有名な科白がありますが、そこま武骨に考えずとも、「自分自身の優しさの濃度」をちょっと調整するだけでもよいのではないかと思います。

僕自身はその調整が全然上手くないので、そういう機微をbarなり別の場所でなり勉強しなければなりません。
学校で勉強できないこと、本の知識で得られないことは、それなりの対価を支払って、人から間接的に学ぶしかありません。

 

 

 

 

“学校で僕らが学ぶもっとも重要なことは、「もっとも重要なことは学校では学べない」という真理である。”

(『走ることについて語るときに僕の語ること』村上春樹