失われた6年間を求めて

こんばんは。

一週間に一度以上はブログ更新したいと思っていたのに、

日常に追われていると決意も鈍ります…

 

6年前に初めて大学生になったときは、毎日のようにくだらない雑文を書いていたのですが、妙にここ最近は長い独白は億劫になりました。

世間並みの羞恥心を身に付けて、面白くない人間に成り下がってしまったのかもしれませんね笑

 

さて、ネタ切れの感は毎回否めないのですが、6年前に自分の思考回路はどうだったのか?と急に探求したくなって、色々と探していましたら、イタイ散文ばかり出てきました…

 

今となっては、恥の上塗り、汗顔の至りなのですが、眺め返してみると若かりし頃の自分というのは、本当に自意識が今以上に過剰だったんだなと思います。

人一倍劣等感が強く、孤高を気取りながらも周囲の目は常に意識し、

挫折や失恋、諍いの度に気持ちの悪いほど自意識が肥大化していく…

そして、それを日記で公開して露悪に走るという愚を繰り返していました。

 

そんな昔の自分は、紛れもなく「中2病」をこじらせた立派な「大2病」患者だったんでしょう。

今から思えば、忘れたいような記憶にも日記を読み返すとぶり返して若干困惑を覚えます。自分でいて、自分でない人間がそこにいるからです。

 

暴走する感情を、覚え立ての生半可なロゴス(言葉、論理)で飼い慣らそうとする愚か者、分からないものを分かったふりをしてさもありなんな顔でやり過ごそうとする欺瞞、人からよく見えたいがためにリップサービスで興に乗るピエロ…その醜悪さには閉口してしまいます。

 

嘘はつけませんが、嘘にしてしまいたい過去というのは誰でもあるでしょう…

若さというのは過ちを許容してしまうものかもしれません。

けれども、決して拭いきれない痕跡をその人に植え付けてもしまいます。

 

今二度目の大学生活を送っていますが、自分より7、8歳若い周りの人々を見ていると、

「ああ、彼らもそういう時期なのかなあ」とふと、「斜めから目線」で考えてしまうことがあります。

それは、あまり良くないことでしょうけれど、昔の自分をもしかしたら再発見して安心したいのかもしれません。

 

「自分はきっと特別な存在で、ひとからは特別な配慮を払ってもらいたい…」

 

そう考えていただけなのに、勝手に傷ついて勝手に癒やしを求めていたのが

あの頃の思考回路であり、行動様式の特徴でした。

(今も大して変わってないかも?)

 

今再び、幸運にも若い人たちと語らう機会を持つことができると、

昔自分が経験した「嵐の時代」を思い出すことも、それなりに意味のあることだと思われます。

説教なんてしたくはないですが、自分に向き合い、他者に向き合うためには

まず過去の自分を直視する仕事から始めるのが手っ取り早いでしょう。

それは「自己分析」などという軽薄なものでなく、過去の記憶を手がかりに

それを現在において再構成する物語を紡いでいくことです。

 

人生のいかなる期間においても、ひたすら走り抜けることのできる人と、

立ち止まって回顧しなければ前に進めない人がいます。

別に過去を振り返ったところで、生産的な活動には直接結びつきませんし、

下手をすれば懐古主義に陥って、いつまでも過去を引きずりかねません。

けれども、人生のあるターニングポイントにおいてそれまでの身の振りを「決算」しておくことは、その先を見通す上での手がかりになるでしょう。

 

日記やブログの上の過去の自分はすでに他者化されていますが、

それを見返すことは、「他者となった自分」との対話でもあります。

その時に、新たな発見、温故知新が少なからずあります。

時計の針は戻すことが出来ませんが、

その当時の自分になりきってものを考えてみるというのは不可能ではありません。

 

「いったい、自分とは何者か?」という問いは、青年期特有の問題ではく、

一生涯、自分と他者から投げかけられるものです。

 

その時にどう答えていけばよいでしょうか?

アルバムをめくるように、過去に書いたものや話したものを振り返ることが

手がかりになるのです。

 

今、僕自身はそれを6年前に焦点を当てています。

あれからちっとも成長してもない気がするし、かえって頭は鈍くなったかもしれない。

友達は増えたかもしれないけれど、実はすごく少ないのかもしれない…

いろんな事が脳裏を過ぎります。

 

この6年で何が変わったのでしょうか?

 

というわけで、次回は当時の日記を振り返りたいと思います。