自背録(2) ―教わる者の傲慢、教える者の傲慢ー

某大学での会話。

または、某電車内でのお喋り。

あるいは、某SNS上でのコメント、ツィート。

もしくは、

 

 

 

「私が教えている中学の子は、何を言っても物分りが悪い。

 九九さえまともにこなさせないのよ…これだから底辺校の子は。。」

 

「あの教え子は、同じことを何度も注意しているのにいつも、

 類題を出したら間違える。成績を伸ばしてくれと言ってもねえ…

 ぶっちゃけ時給いいから、適当に教えてたらいいんだけどさw」

 

「『先生、今日やる気ないでしょ?』

 ‥いや、いつもの君よりはマシやってw

 せめて君と違って先生は予習してるんやから」

 

 

あるいは、こんな声。

 

 

「あの教官の説明ときたら、やたらに高圧的で、上から目線で、

 その癖学生を買いかぶっていて、全く手を抜いてばかりいる」

 

「口は出せども単位は出さない。課題は出せども評価はしない。

 テスト前にポイントも教えてくれない。

 授業もつまんねえから、もう来週から行く気がしないよ」

 

「研究だけがしたくて、教育を考える気があるのかね…

 給料ドロボーも甚だしいのでは?」

 

 

 

無知を軽蔑して教える者は、教わるものに同じくらい軽蔑される。

 

いったい「わからない」ものを、

「わからない」と正直に打ち明けて教えてもらった者だけが、

その告白がどれだけの恥辱であるかを知っている。

 

 

 

ある、「彼」の話。

 

 

彼は、簡単な公理や定理からの演繹がうまくやれず、

具体例から帰納的に物事の道理を導くことに不得手である。

マイナスとマイナスをかければプラスになるとか、

物質が化学変化を起こすということとか、

日常言語の中の文法事項というものがなかなか理解しづらい。

他のひとにとって当たり前のことが彼にとっては

当たり前には思えないのである。

学習する度に「なぜ?」を連発して無限に遡行していく。

幼児ならまだしも、思春期の少年である。

本当に人に聞くのも恥かしいことに、

漢字とか計算とかちょっとしたことから、

世の中の決まりごととかも、全然他人より知らない。

 

 

皆彼がバカだと思っているし、彼自身自分はバカだと思っている。

そしてバカだから、勉強が出来ないと思っている。

勉強が出来ないから、勉強は好きじゃない。

誰かに教えてもらうたびに恥をかかなければいけないし、

もう勉強なんてしたくない。

 

 

でも、分からないものは分からないのだ。

それでバカと言われたら開き直るしかない。

バカでダメ?なぜそれではダメなの?

 

ちょっとくらいバカなだけで…

(彼自信は自分ではひとより

「ちょっとだけバカ」という自覚がある)

確かに、親や先生や塾講師、家庭教師の学生はいらいらするけど…

 

 

 

 

あの「出来のいい」、「要領のいい」人間たちは、頼んでもいないのに

さもありなんのしたり顔で登場し、知識をばら撒きだす。

そいつらにとって教える内容など全く問題ではない。

その方面には非常に精通していなくても、それなりの薄っぺらな知識だけはあるからだ。

自分でもよく分かっていないことを、いともあっさりと解説してしまい、

そのあとで彼を質問攻めにする。

 

「まだ何か分からないところはある? 遠慮せずに言ってごらん」

 

すると彼は一層卑屈になってしまう。

また、いったん彼の顔に恥辱が垣間見えるやいなや、

その中途半端な物知り人間は、ますます調子に乗って長冗舌を繰り広げる。

自分には「分かっている」ことだけを、教えたがるその輩は、

本当は分らないことでも、誤魔化して教えようとする。

それが、連中お得意の「要領のよさ」であり、

奴らなりの彼に対する「親切心」なのだ。

そうやって欺瞞を、何のためらいもなく彼にプレゼントするのである

 

しかし、彼がどうしても分らないようであると、

連中の顔は次第に曇りがちで忌々しげになってきて、

とうとう彼に「分かったふり」を強いるのである。

(それでも、決して怒りはしない、軽蔑してはいても

 飽くまで表面では冷静を取り繕うのだ)

 

それでいてうまくいけばしめたもの。

彼がその気になれば「分かる」ものだと、計算高く踏んでいるからだ。

彼の恥辱を巧く覆して、勝手に傲慢にさせて知的快感をくすぐってやろう。

そうしてやれば、分かっていようがいまうが関係ない。

自分は時給に見合う仕事をすれば良い。

顧客にもそうやっていい思いを吹き込めば良いと、

最近読んだビジネス書にも書いてあった。

Win-Winの関係?そんなもの騙し合いだろう?

頭の悪い生徒や客にいちいち付き合っていたら、自分まで頭が悪くなりそうだよw

 

 

「どう?先生、これで合ってるよね?僕もやればできる子だよ。

 テストなんて楽勝楽勝。先生の言ったとおり、出そうなところを

 ちょっと暗記しておけば、なんかよく分からなくてもできるし。

 適当に頑張ればまあなんとかなるっしょ!」

 

もう彼は恥かしくない。

彼は「分からない」ことを諦め、考えることを放棄した。

次から次へと溢れる疑問に終止符を打ち、

人並みの記憶力だけに頼るようになった。

本も読まず、授業も聞かず、分からないことは人任せにし、

教科書と参考書のミニマムな記述だけを覚えることにした。

学校の勉強は、思考停止すれば簡単だったのだ。

 

恐らく彼は、これから「要領のよさ」を身に付けていくだろう。

そして、あの連中の仲間入りを果たすだろう…

こうして、知的な傲慢さと欺瞞が再生産されていくのである。

 

 

 

いったい、教える者が傲慢に陥らないためにはどうすればよいのか?

人にものを教えることで謙虚さを失わずにいるのは不可能なのか?

 

 

 

教わる者の「分からない」苦しみ、その苦しみを悟ったら、

教える者は自分の最も苦手とすることを思い出せ。

 

苦手な人達との強制的な交際。

嫌いな食べ物の克服。

反対の主義主張への理解。

負けを認めて、勝者の靴を舐めること。

失恋、非難、暴力、失敗、裏切り…

そうした数々の屈辱的な出来事。

 

無知は全く恥ではないとしても、

そうは簡単に口に出してはならない。

彼の不名誉に気安く触れてはならない。

気軽に「先生」と呼ばれても、少しでも尊大な気持ちが

生まれたら決して見逃してはならない。

 

傲慢な先生から教わった子は傲慢になるだろう。

謙虚な先生から教わった子は謙虚さを学ぶであろう。

 

教わる者は、謙虚であれ。

教える者は、もっと謙虚であれ。