自背録(3) ー「ダメ人間」の条件ー

政治哲学者ハンナ・アーレントによれば、

「人間の条件」の基本的要素となる活動力は以下の三つのカテゴリーに分けられるという。

 

1.     労働(labor):人間の肉体の生物学的過程に対応する活動力

 

2.仕事(work):人間存在の非自然性に対応する活動力。

        生命を超えて永続する「世界」を作り出す。

 

3.活動(action):モノないし事柄の介入なしに

         直接人とのあいだで行われる唯一の活動力。

         多数の人間の間で生きること。

 

では、「ダメ人間」ならばどうだろう?

「ダメ人間」の定義という問題がここで頭を悩ませるが、

ここでは単にアーレントのいう「人間」の概念の逆を考えよう。

すなわち彼女によれば、

 

 

人間の条件は、人間が条件づけられた存在であるという点にある。いいかえると、人間とは、自然のものであれ人工的なものであれ、すべてのものを自己の存続の条件にするように条件づけられた存在である。

(H.アーレント『人間の条件』)

 

 

これを換骨奪胎すると、

ダメ人間の条件とは以下のようになるだろう。

 

「ダメ人間の条件は、ダメ人間が条件づけられた存在であるという点にある。いいかえると、ダメ人間とは、自然のものであれ人工的なものであれ、すべてのものを自己の破滅の条件にするように条件づけられた存在である」

 

 

「すべてのものを自己の破滅の条件にするように条件付けられた存在」

とは、何と身も蓋もない存在だろう。

 

ニートとかヒモとか放蕩暮らしとかならまだかわいいものだ。

勉強もしないで毎日ゲーセンで遊んでいる万年浪人生とか、

酒と女とギャンブルで借金付まみれ。家族からも愛想をつかされた中年男性とか、そんなのは「ダメ人間の条件」を考える参考にもならない。

彼らは真の「ダメ人間」には遠く及ばないのだ。

 

「真のダメ人間」ならば、自らが与えられた条件すべてを

無に等しいまで、徹底的に棄却せねばならない

 

徹底的に自己破滅すること、昨日までの自分、

いや一分一秒前での自分をあっさり殺さなければならない。

物質的・経済的に破滅するには、金銭がなくなれば、

ある意味そこで終わり、ゲーム・オーバーだが、

精神上はまだまだ上部で復活、成り上がりを諦めてないことが多い。

 

人間精神というやつは意外に図太くて、

七転び八起きというか、世間的に成功した人の中には、

文字通り「ゼロからの出発」を何度も経験した人は少なくない。

私なども、現役時代、受験した大学には全て蹴られたのだった。、

(志望校以外に受かってもこっちが「蹴ってやる」積りだったのだが)

 

高校生の時分などというのはまあ、

あまり思い出したくないことも多く、

学校も行かず、部活も行かず、塾も行かず、

もちろん勉強にも娯楽にも身を費やさずに一日の大半を寝て過ごす、 などということが少なからずあり、 自ら「ダメ人間」を自覚していた。

本当にクズな生き方をしていた。

 

まあその頃も「クソおもんない学校でたら、クズな俺でも浪人して勉強するやろ」 とか「やれば出来る子やねんな、自分」

など、根拠なき誇大妄想と、虚栄の中の虚栄を心底に抱いてはいた。

要するに、「ダメ人間」などと認定しておきながら、

まだその中にどうしようもない「救いよう」を見出しているのである。

そんな輩が「ダメ人間」と名乗って良いものか?

 

かつての私がそうだったように、「ダメ人間ですから」

などと言い訳を講じる人間は、まだ救いようがある。

自分で自分にアピールせずにはいられないのほど、

彼の中の自尊心はまだ爪の垢ほどは生きているのだから。

 

人から蔑まれる「ダメ人間」もまだ救われている。

だって、まだ「人間」扱いされているのだから。

 

どんな怠惰や不道徳を働いても、彼にはまだ「人間」たる余地がある。

獄につながれようが、断罪されようが、

それは彼が「人間」だからに他ならない。 どこまでいっても「人間」から逃れられない人は真にダメ人間ではない。

 

そうなると、ダメ人間は世捨て人、ということになるだろうか、

世捨て人は「真のダメ人間」たることを志向する点では大いに評価するけれど、

それでも、彼はいまだ「ダメ人間」になりきれていないから、

ある意味で可哀想な人種である。

やはり彼も人の子である以上どこかで、捨てた「世」がついて回り、

彼の人情の残滓を幾ばくか刺激しているかと思うと、 同情を禁じえない。

ダメさ加減がなまじ不徹底だから、周囲に期待を寄せられてしまう。

 ダメ人間になりたくて、堕落の道を選んだのに、

それなのに… 嗚呼可哀想、可哀想。

 

「ダメ人間、徹底的な堕落者は、きっとどこかにいるのだ」という思い込みが、

反面、私たちをして「救いよう」のある者にさせるのである。

いや、「救いよう」のある者だからこそ、

徹底的な堕落が不可能なのではないか。

 

重力に抗えずに人間は高所から低所から簡単に「落ちる」けども、

精神的に「堕ちる」ことは本当に難しい。「堕ちる」先はまったく見えない。

見えないということはこの上ない恐怖である。

「救いよう」ある者は、墜ちながら眼を背けずに着地点を見てしまう。

頭から真っ直ぐ墜ちて死ぬような莫迦、すなわち真のダメ人間には決して成り切れないのである。

 

人間精神は、墜ちるところまで堕ちた先の先に、

お釈迦様の垂らしてくれた蜘蛛の糸がぶら下がってしまうと思ってしまう。

だから、彼は真のダメ人間にはいつまでも経ってもなれない。

それは哀しいことである。

自分のダメさ加減をよくよく解っていた人が、

そんな自分に救いを求めるしかないと気づいて、

赤ん坊のように 泣きじゃくる瞬間が、この上なく哀しい。

もうこうなれば、結局自分に「救いよう」があるのだと諦めるしかないのである。

 哀しいけれども、そういう諦念をもってダメになる「振りをする」しかない。

これは、正常な理性の恩寵である。

 

感謝したまえ、自称ダメ人間の諸君。

諸君らはすでにダメ人間と自覚したときから救われているのである

 

諦めてしまえば「ダメ人間」もちょっとは「人間」より賢くなるだろう。

そうやって、そうやって、自称ダメ人間は自分のダメさを

勝手に崇拝する途を忸怩たる思いで選ぶのだ。

 

 

そこで、私は安吾が『堕落論』で

言いたかったことが何となく分かったような気がして、

「なあんだ、そんなことか」ととちょっとがっかりしつつ、

「堕ちよ、堕ちよ」という彼の議論に便乗したくなるのである。

 

 

 終戦後、我々はあらゆる自由を許されたが、人はあらゆる自由を許されたとき、自らの不可解な限定とその不自由さに気づくであろう。人間は永遠に自由では有り得ない。なぜなら人間は生きており、又死なねばならず、そして人間は考えるからだ。政治上の改革は一日にして行われるが、人間の変化はそうは行かない。遠くギリシャに発見され確立の一歩を踏みだした人性が、今日、どれほどの変化を示しているであろうか。

 人間。戦争がどんなすさまじい破壊と運命をもって向うにしても人間自体をどう為しうるものでもない。戦争は終った。特攻隊の勇士はすでに闇屋となり、未亡人はすでに新たな面影によって胸をふくらませているではないか。人間は変りはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。

 戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱(ぜいじゃく)であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎださずにはいられなくなるであろう。だが他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。

坂口安吾『堕落論』)

 

 

 

戦後60年経とうが、どこまでいっても堕ちるところまで堕ちきれないわれわれの哀しさ、惨めさはどうしようもない。

 

「堕ちよ、さらば救われん」

そう言い切る安吾に値するダメ人間は、いったいどれくらいいるだろうか。

結局、救われることばかり考えてしまって、

真剣に堕ちることなどできていないのではないか。

それなら、さっさと自称ダメ人間から真人間へとジョブチェンジするがよい。

退路は断つなら早いほうがよい。

 

二十歳を過ぎたばかりの私にとって、

もう後戻りは出来ない時期がすぐそこにやってきている…