自背録(4)−Holiday Junky−
みなさん、今晩は。
雨は中々降り止みませんが、過ごし易い日々が続いてますね。
この雨の谷間の奇跡的な週末が、模試なんかなければ、受験なんかなければ
昼下がりに鴨川の川べりで通俗小説を枕にしたり、
京都御所で腕白小僧とサッカーやキャッチボールの相手とか、
どこぞの女史と祇園の方で甘味処巡りなど
大いにしたいんですが残念です(苦笑)
最高に有意義な週末、最高に優雅な週末、
それを堪能している皆さん本当に羨ましい限りです。
くれぐれも帰宅してからサザエさんを見ぬように。
それから月曜日というものは月曜になってから考えればよろしいと思います。
休日は休日しかないのですからね。
さて、僕の方でもこの前のようなヘンなものを書くと
反響があると嬉しいもので、これからも日記というものを書く意力も湧いて来ます。
これからはしばしば思っていることを思っているままに書いていこうと思います。
昔の日記のように感傷に浸るのでもなく、さりとて誇張気味の調子は捨て去る積もりもなく、
ごくごく有体に続けたいと思います。
さて、最近の皆さんの日記を伺っていると、
「休日の過ごし方」が結構個性があって面白いと思っていたので、
これを一つ俎上に上げたいと思った次第。
そういえば、震災の影響で各企業の休日が増える可能性もありますね。
現在はとある地方都市で社会人生活を送る大学時代の友人は、
休日は家事や日常の整理に追われていて変化が乏しいのを上司にこぼしたところ、
「自転車で遠出でもしないのか?」と言われて、即実行に移したとのこと。
思っていたより目的が遠く、非常な徒労に終わったものの、
日記では何かしらの充実感が窺えます。
肉体の活動が鈍磨していた精神をinspireさせる良い例ですね。
また別の高校時代の友人は、ネット上で知り合った同好の志と、
カラオケや飲み会を企画し、初対面にもかかわらず大いに杯を重ねたとのこと。
これは私もよくやる楽しい遊び。
mixiやtwitter、Facebookなどソーシャルメディアが流行してからオフ会の敷居は大変下がりました。
当初から利害関係のない絡みなので、純粋な友情にも発展しやすいです。
そんなふうに休日は有意義に過ごそうと思えば過ごせますし、
寝てしまったり、ネットサーフィンをやっていればあっという間です。
僕の場合は、積読の書籍を消化しようと思っていたら、
遊んでしまって、結局積読のまま、ということしばしばでしたが。
しかし、皆さん。ちょっとお待ちを。
休日とは、果たして有意義に過ごさなければならないのでしょうか?
そんな休日というものの過ごし方は、自由なようでいて、
実は大変不自由に困るということも少なくないではありませんか?
僕自身、何処かで稼ぐ生活を送っていれば、たぶん仕事に疲れていなくても、
週末に余暇活動に没頭できるほどの
エネルギーの貯蓄は学生時代ほどではないでしょう。
余暇を楽しみに仕事をするほどのめり込んでいたとしても、
いざ休日が到来したら、どのように実行に移そうかという
プランをあれこれ思案していた程度には、実際の休日は大変儚いものでしょう、飽くまで予想、NEETの戯言ですけどね。。
ここで、敢えて言いましょう、
休日をアテにして頑張っている人は幸いなことに、
そしてまた残念なことに
「事前にその休日を日常の中で消化してしまっている」のだ、と。
それは厳密な意味で休日ではない。
日記帳を「あれも、これも」と埋め尽くし、
「休日こそは汝、○○をすべし」と己の行動基準を企図する。
先取りされた経験が、「わたしをして、わたしに命令を下す」のですから、
わたしは、過去のわたしに命じられて動いているにすぎないわけです。
それは「既に起こってしまっている出来事」です。
どんなに待ち焦がれていた初デートであっても、
家族サービスの温泉旅行であっても、
そのようなイヴェントは先のことであってももうわたしの中で
「終わった」出来事です。
どのような手筈で出来事が進行するかを考えるので、頭が一杯になっているとしたら、 それはたぶん、
わたしの貴重な休日が紛れもない「平日」になりつつある証拠でしょう。
僕は、予定のある休日は休日ではなくて、
「特別な仕事」を要求される日ではないかと思うのです。
特別な仕事、というのは何も難しい仕事ではなく、
まあ「プライヴェートを幾分か充実させたくなるような仕事」です。
そんな特別な仕事は、わくわくするものですし、普段は発揮できない自分の能力、機会を試したくなります。
いきおい、スポーツとか、デートとか音楽鑑賞とか飲み会とか、自己投資のための勉強とか特別なエネルギーを要する仕事に没頭すること出来ます。
このような「特別な仕事」に精を出すことができれば、
非日常=ハレの世界が延長拡大します。
ハレの世界を引き伸ばすことで、
日常=ケの世界を他者に支配されるものではなくて、
その中で自分がいきいきと生活しているという実感を
多少なりとも得られるのかもしれません。
しかし、お祭りは終わるのです。
どうあがいてもあの恨めしい月曜日は必ずやってきます。
ハレの世界からケの世界へと引き戻されます。
結局、どこまで行っても圧倒的に日々の仕事に忙殺される日常に、人生の大半を奪われるのです。
いったい、本当に「特別な仕事」はハレの世界=非日常を引き延ばしてくれるでしょうか?
予定でいっぱいのケの世界=日常こそがハレの世界を覆い尽くそうとしていないでしょうか?
休日も平日も、快/苦という次元のみで分けられ、
どちらも、こなすべき仕事に忙殺されていないでしょうか?
真正の「休日」などというものはあるのでしょうか。
簡単。ひとつぎくりとされる指摘をしましょう。
忙しいわたし達が恐れおののき、避けがたい苦しみと嫌悪を催すことのある、
あの、「全く予定のない、何もすることない休日」です。
ひねもす朝から晩まで、何をすることも思い浮かばず、
誰とも出会う予定もないあの、忌々しい無意義で単調な休日。
普段はそんなこと滅多に思わないのに、 明日も仕事だったらいいのに、という言葉が思わず喉元からこみ上げてくる真っ白な空白。
一日寝ていても、勝手に過ぎてしまう、無駄の極み。
暇だ、退屈だ、することがない、なんでこんなに一日が長いのか、
いい加減早く終わってしまえ…
さて、そんな日が明日だったとしたらどうしたらいいのでしょう?
いったいわたしは何をしたらこの哀しい孤独を紛らわすことをできるのでしょう?
すぐさま傍らのケータイで誰かに連絡を取りましょうか?
それともPCを開いてソーシャルメディア上で誰彼かまわず絡みましょうか?
あるいは掃除やら洗濯やら料理やら家事に専念しましょうか?
いえいえ、特別な仕事を事前にわざわざつくるのは止しましょう。
休日に作った特別な仕事を虚しくさせる、あのサザエさん的発想から抜け出すには、 たぶんこれ以上、新しい「特別な仕事」を頑張らないことです。
休日を真に休日らしく過ごすには、頑張るのはいよいよ諦めた方がよいのです。
仕事から解放されましょう。
くどいようですが、何であれ仕事に束縛、翻弄されるのは休日ではないのです。
来るべき恐怖の休日が来るのを、首を洗って待っていましょう。
しかるべくしてやってきたら、
そのときの「気分」と「思いつき」で動いてみましょう。
その時々の、わたしのなかのニュアンスの変化を愉しむのです。
「何も考えない」からこそできる究極の当てずっぽうで、
その一日を真剣に生きるのです。
難しいでしょうか?
具体的に何をすればいいでしょうか?
…それを僕が書いてしまうと、また皆さんに
特別な仕事の観念を予め押し付けそうですからちょっとだけ。
家の中では急に古いアルバムを取り出して眺めたり、
普段は絶対に見ないくだらないテレビや映画、漫画を手当たり次第に見たり、
いきなり裸になって姿見でポージングしてみたり、
大笑いと大泣きの練習をやってみたり、
昔の恋人に突然電話をかけて「昨日の晩御飯何食べた?」と屈託なく尋ねたり、
外にふらっとでかけて、道端のタンポポに「お早う」と言って見たり、
一人カラオケで完全燃焼するまで歌ったり、
路上詩人と愛について熱い議論を交わしたり、
喫茶店のマスターと政治談義にふけったり、好きにしたらいいのです。
そんなに突飛なことばかりでなくても、一日中ぼおっとしているなかにも、
妄想を逞しくさせるだけでひとり遊びに興じることはできます。
無駄に明日自分が死ぬとしたら、今どうするかと思考実験したり、
万一に備えて遺書したためたり、親しい人にわざわざ手紙を書いてみたり…
できれば不安に駆られながらもあらゆる思い付きを試すといいかもしれません。
いろいろやってくるうちに、段々休日が休日らしくなってくるでしょう。
取り留めのない行動や思考を実践しているうちに、
仕事で埋め尽くされる「終わりなき日常」から、逃れられる自分なりの手立てが、思いもよらないところから降ってくるかもしれません。
そんなあなただけの休日の過ごし方を見つけたら、
誰にも言わず、とても大事になさって下さい。
わたしの、わたしによる、わたしのための休日。
四畳半でも、大都会の真ん中でも、脳髄でも手足でも、
己の欲するところに流れていくまま身を委ねてみる休日。
全てに失敗し、充実感に乏しい、試行錯誤の休日かもしれませんが、
その価値を保証するのはわたしであって、
わたし以外に貴い権利を譲り渡すことは決して出来ません。
わたしはわたしの休日を、自分の全存在を担保にして、自由気ままに賭けているのですから。
真にholidayであるからこそ、真に俗=ケが聖=ハレに昇華するのですから。
さて皆さん、次の休日はいったい何をなさるおつもりでしょうか?