自背録(5)−「人々」のずるさ−

 

 「人々」は残酷である、 

  しかし「人」は優しい。 

 (『迷える小鳥』ラビンドラナート・タゴール

 

 

タゴールは、なぜ「『人』は優しい」を、 

 

逆接の後ろに置いたのだろうか。 

 

そこに、何故か私は引っ掛かってしまうのである。 

 

残酷な「人々」の前では、たとえ優しい「人」でも、 

 

圧倒的に無力なのに。 

 

優しい「人」は、直ぐに残酷な「人々」に取り囲まれてしまうのに。 

 

「人」は、たしかに、優しいかもしれない。 

 

しかし、「人々」は残酷だ。 

 

本来、そう語られるべきである。 

 

それが、否定しがたい残酷な現実なのだから。 

 

 

現実を直視せずに、「どこかにいる優しい『人』」に、 

 

賭けみようなんて、ずるくはないだろうか。 

 

思いやりとか、良心とか、善意とか、優しさとか‥ 

 

そんなきな臭いものにすり寄って、媚を売ろうなんてずるい。 

 

差別、嫉妬、虐め、排斥、蔑視、欺瞞… 

 

「人々」の負の部分、悪をしっかり見ろと言いたい。

 

自分と真摯に向き合ってくれる「人」がいると思い込んで、頼りにしているから、

 

自分を「人」扱いすらしてくれない冷酷で無慈悲な「人々」にしてやられるのである。

 

そういう奴のことを「お人好し」というのだ。

 

 

「しかし」…、タゴールが弄した後ろの甘ったるい言辞が私を惑わせる。

 

この言葉には、残酷な「人々」を忘れさせてしまう魔力がある。 

 

いるかいないか分からない優しい「人」に賭けてみようという 

 

気を、性懲りもなく起こさせる魔力もあるのだ。 

 

もちろん、魔力に惑わされて、信じてみたら簡単に裏切られるのに… 

 

ただ失望しか残らない。滑稽な話だ。 

 

頭じゃ分かっちゃいるけど、ついつい乗っかってみたくなるのだ。

 

それに耳を貸す自分が馬鹿なお人好しなのはわかっている。 

 

だから、この言葉はとてつもなく「ずるい」 

 

卑怯でも、クソッタレでもないけど、ただ、ずるい。 

 

「ずるい」対象には、悔しくてしょうがないから、 

 

賞賛と侮蔑をこめて、仕方なくそう呼んでやることに私はしている。 

 

言葉にも、友達にも、恋人にも、先生にも、はたまた学校や企業や国家にも、 

 

ずるい奴は沢山いるから、困ったもんだ。 

 

皆、甘言を持ち出してきて私を誘惑する。

 

特に、ずるい女…これが一番やっかいなことは言うまでもない。

 

 

 

ずるい生き方もある。 

 

ずるい死に方もある。 

 

ずるい思想も、ずるい音楽も、ずるい政治も、ずるい金儲けもある。 

 

全く、賞賛と侮蔑を込めて「コノヤロー」と心から罵ってやりたい。 

 

嗚咽をもらして拍手しながら、顔面を思いっきり殴ってやりたい。 

 

ありたっけの大声で賛辞と侮言を叫んでやりたい。

 

自分も、それくらいずるくなれたらいいのに。 

 

もっとずるく生きて、非難と喝采に包まれて死にたい。 

 

何か手っ取り早くずるくなれる方法はないものか。 

 

 

               

私は悪人です、 と言うのは 

私は善人です、 と言うことよりもずるい。 

 (『私は海を抱きしめていたい』坂口安吾

 

 

ずるくなれない自分が本当に情けない。 

 

ずるい「人々」になりきれない自分が本当に悲しい。