言語の終焉 -平凡な事実としての死を乗り越えるために-

(以下の文章は、5年前に大学のとある授業レポートとして提出したものです)

 

 

 

 

 

世界とは、起きていることすべてである。
 世界は事実の全体であり、ものの全体ではない。
 起きていること、すなわち事実とは諸事態の成立である。
                L.ウィトゲンシュタイン論理哲学論考



 死は取るに足らない平凡な事実である。斜塔から投げられたリンゴが地面に向かって落下するのと同じように、平凡な事実にすぎない。斜塔から投げられたすべてのリンゴが地面に向かって落下するように、この世界に生まれ落ちたすべての生命もまた死に向かって絶えざる活動を続ける。死とはただそれだけのことであって、それ以上のあるいはそれ以下の評価を与えるべきことではない。わたし達--生命にとって、その活動停止は予め約束されたものであり、不死の(死ぬことのない)生命をそれでもまだ生命と呼ぶことは適わないだろう。わたし達は--生まれ、そして幾許かの時をこの地上で過ごし、そして死ぬ--という生と死の過程において初めて生命と呼ばれ、人間と呼ばれる。
 ところが、こういった事実としての死とは別に、実に多様な死が長い間語られてきたし、現在も語られ続けている。と言うより、むしろ、わたし達の死についての概念の大半は、事実としての死についてのものではなくて、死にまつまる諸事情についてのもので占められているのだ。

 

あらゆる人間の活動分野の根底には、死にまつわる何らかの態度が密接に関っているが、哲学上においても死は重要な課題で、プラトンは「哲学は死の練習-『パイドン』」と書いている。死がわたし達にとってただ単純に不可避なものであるというだけなら、死は文字通り平凡な事実に留まったであろう。何も不可避なものは死ばかりではなく、例えば空腹感(食物への欲求)などもわたし達にとって不可避なものだからだ。しかし、わたし達は空腹の経験を死のように深刻はとらえない。わたし達はそれが不可避であるという事実からは空腹を忌み嫌うよう真似をしない。むしろ、美食という概念にも顕著なように、その空腹のより有効な解決法は好んで研究対象にさえされている。また、犬や猫を飼育した経験の持主ならば容易に理解できるように、犬や猫でさえも飼料を選り好むという嗜好を持っている。

 

では、不可避なものとしては同値である死と空腹の差異はどの点においてであろうか。 それは、死は、空腹が食物の摂取によって満たされるようには満たされることがない、ということである。直喩的に言えば、死は死を与えられることによってしか満たされないが、死に満たされた状態とはすなわち死そのものの状態であり、わたし達生命体とってそれは決して満たされたとは言えない状態なのである。つまり死は、死を与えられることによってのみ満たされるのだが、わたし達はそのような死の満ちた状態においてなお、生きていることは適わない。これは厳密には、わたし達の誰もが死を経験できない、ということを如実にあらわしている。

 

不可避であると同時に非経験的--いや、むしろ非経験的であるにもかかわらず不可避であるがゆえに、死は平凡な事実に留まろうとしない。未知のもの、未体験のものはわたし達のイマージュに働きかける。それが死であれ、謎であるものは存在しないが、死のように最初からそれが非経験的であると解かっているもの(失われた遠い文明の勃興の物語のように、存在する事実はあったものの、その物証が永遠に失われていて確証を得ることが不可能なもの)の輪郭の不在をイマージュによって補正することはわたし達にとってともすればオートマティックな機能でさえある。もっと言えば、イマージュや推理によってわたし達はその失われた物語の諸断片を接合し、それらしい輪郭を与えることを一種の「趣味」とさえする。それが特定の文明の勃興の物語であれば、それに興味を抱くのは限られた小数の人間だけであろう。しかし、死が時間と空間を超えて万人に去来する不可避な現象であるだけに、死は、誰もが一度はイマージュしなければならない課題なのである。ここに、失われた文明の物語とは比類にならない、万人への対象として現前する死の物語の重さがある。(前述の、プラトンの「哲学は死の練習である」という言葉が際立ってくるのはこのような場面においてである。すなわち、哲学とは誰もが必ず直面しなければならない死という問題に何度でも自ら立ち向かっていくという営為によって「死の練習」たるのである)。

 

ところで、死には食に見られるような嗜好(死を満たして解消するための選択肢)は見られない。なぜなら、それは死が非経験的現象であるからで、その個人の理解外にあるものをまたアレンジすることもできないからだ。こういった理由から、死は、わたし達に裸形の姿のまま迫ってくる。(パウロは『コリント人への手紙』で「最後に滅ぼされる敵は死である」と明言している。キリスト教の世界観によれば、最後の審判の日に死者は蘇り、神の裁きを受けるとされている。他方、仏典の一つである『修業道地経』によれば、人間は輪廻を繰り返すことが説かれ、生前の行為によって六道に生まれるとされている)。またこれは死後の世界である地獄の描写にも詳しく触れているこのように、伝統的な宗教はその一つの機能として、死自体ではなく、死の背に来世を据え、それについて好んで物語ってきた。こういった宗教観によれば、生前の行為が来世に直接的な影響を与えるため、現世での生き方を拘束するというポリティカルな側面も含んでいた。すなわち、依然として様々な外的脅威にさらされているような時代において、さらに死が無意味であるとされれば(それゆえ死後も存在しない)、現世でどのような悪事をはたらいても何ら咎められることはない(いずれにしても死ぬのであり、その死が何ら意味を持たないのであれば、存命中に何をしても問題にされない)という無秩序な状態を引き起こしやすい、ということである。この混乱は宗教家だけでなく、為政者にとっても大きな課題であり、こうした混乱の一つの回避策として古代国家による任意の宗教の保護や迫害が行なわれてきた側面は無視できない。

 

幾多の困難を経て一大国家プロジェクトとしての国教に定められるまでに勢力を拡大した大宗教はそれを庇護した帝国の終焉すら乗り越え、現代まで脈々と語り継がれている。そして、それが語り継がれるということは、その物語がそれだけ広く読まれ続けることを意味している。(キリスト教の聖典である聖書は世界最大のベストセラーとされ、1815年~1998年の間に約3880億冊という膨大な部数が印刷・書写(日本語版ギネスブック1999年度版より)されている。これを数千年にも及ぶ一大文化の壮大な叙事詩と呼ぶことはもはや揺るぎようのないことであろう)。

さて、文化と呼ばれるまでにわたし達のアイデンティティに深く根差した物語はわたし達の死にどのような示唆を与えるのだろうか。

 

文化とは非常に独自なもの、特別なもの、固有なものであって、それがどれだけ近代的な国家であっても、その国家がそのように成立した経緯は、文化を蔑ろにして語ることはできない(あるいは、文化なくして国家像や人物像は語りえないとも言える)。言うなれば、その文化を理解しなければ、その国や(その国に生活する)人を理解したと言うことはできないのだ。その点で文化は、わたし達やひいては国家の身体と言えるだろう。もちろん、わたし達はわたし達を生む両親を選べないように、生まれてくる時代や地域を選ぶこともできない。そういう実際の存在を本質に先立たせた存在体であるわたし達にとって、ア・プリオリ(先験的)に与えられている文化という要素は非常に大きな意味を持たざるをえない。この「私」が、現在と同様の両親から日本において出生したとしても、誕生直後に里子に出され、まったく違うそれぞれの地域に生活していたら、それこそわたしの人生はわたしというア・プリオリな要素(≒遺伝子)は変わらないにもかかわらず大きく変容していたであろう(わたしが日本語を操るか英語を操るかで、わたしの気質は変わってくる。わたしが和食を主食とするか洋食を主食とするかで、わたしの体型もまた異なってくるように)。

 

文化の特性は生活様式(上記に挙げたような各言語間の語感の違い、和食と洋食における箸-fork,椀-bowl,低座卓-tableの違い)に簡単に見ることができるが、文化はわたし達が自己を認識するのに必要不可欠な言語にも深く根差している。(同言語間にも方言というニュアンスの差異が存在するが、ここではそれらは日本語の標準語に対する関西弁であったり東北弁であったりという具合に、標準ルール内のローカル・ルールと扱っている。要するに、日本語であれば日本語、英語であれば英語に共通する文化的背景があるといった視座に立って考察している)。

 

多くの言葉には語源があるが、ことに表意文字という漢字を含んだ中国語や日本語にはそれが顕著だと言える。日本人は漢字の一定のルールを覚えると、それが未知の漢字であってもその大まかな意味を推測することができる(部首による識別など)。この、直接知らない対象を推測できるという部分はイマージュに強く関ってくる。つまり、わたし達は頻繁に語られる死という言葉や、死の置かれた文脈から死をイマージュできるのだ。

また、生まれて間もないわたし達は多くの言葉の定義を具体的には知らされないまま(というより、具体的な言語能力を有していないのだから、知らされることがまず不可能なのだが)、イマージュに満ちた言語の海に投げ出されまる。生まれたてのわたし達の周囲には、わたし達がそれを何らかの有意味な発話であるのかを認識するしないにかかわらず、およそあらゆる発話が溢れている。例えば、聴覚(耳)は目のように閉じることができないので、わたし達は無数の音を自動的に受け取っており、幼児が最初に習得(発話)する言葉が「お母さん」や「お父さん」であったとして、それを発話した幼児はにもかかわらず「お母さん」という単語を正しく理解して発話しているわけではない。幼児は自分の母親には「お母さん」と呼びかけられるだろうが、他人の母親には「(他人の)お母さん」と呼びかけることはできない。なぜなら、その幼児が発話している「お母さん」という単語は形式的に正しい日本語としての「お母さん(母親の意)」ではなく、単純な名指しであり、「お母さんという名前を持った対象を指示する単語(名前)」として扱われているにすぎないからである。このように、子供達は両親やその身近な人間が喋っている言葉を反復することから言語の習得を始める。すべての両親が辞書を手に「お母さん」という言葉を筆頭にすべての言葉の理解を子供に与えることなどないし、また最初からそのような方法で子供に言葉を教授することは不可能である。わたし達人間は音から意へ、耳から口へという順序で言語を習得していく。

 

 言語習得の過程で、わたし達が辞書という定義集(意味)に手を伸ばせる段階になる頃には、言語観の大まかな雛形は既に形成されてしまっている。そして、この言語観の雛形を形作るものが、例えばわたし達の一番身近にあってわたし達に言語を反復させる両親と両親のその生活--文化なのである。こういった文化的背景がわたし達の死の観念の形成を大きく左右していることはもはや疑う余地はない。

 

 そこで、わたし達人間を定義する上で欠かせない言語という機能が、わたし達にとってだけ死の現出の仕方を変える。というのは、ある意味では言語化という作用を伴わなければ、わたし達は、あるものに対しての知覚内容を正確には知ることが適わないからである。知ろうとする事態がさらに複雑であれば、それは困難と言うよりおよそ不可能となるだろう。複雑な言語を持たない諸動物は自分が死ぬという未来における確実な事態を知ることも、知らされることもない。ゆえに、諸動物にとって死は平凡な事実としてしか現れざるをえないのである。  

 

確かに、諸動物にとっても身近な存在の死は不可解な出来事のはずである。例えば、犬や猫はわたし達人間の個別性も認識できるということがある。飼い主やその家族の内の誰かが長期間不在となると口にこそ出しはしないが、その不在を感じ取ってはいるようである。しかし、犬や猫はどのような事由で飼い主やその家族が不在なのかを考えることは決してしない。飼い主が旅先から帰っても、一度死んでしまった後に帰ってきても同じことなのである。わたし達は、わたし達の大切な誰かが旅行に出掛け、今日それが帰ってくるのであればその帰りを楽しみに待つだろう。しかし、旅に出たその旅が、死出の旅であれば、わたし達はその帰りを「待つ」ことは絶対にない。ところが、犬や猫は待つのであれば、死者が帰ってくるのを待ち続けるだろう(例えば忠犬ハチ公のように‥)。犬や猫は飼い主やその家族に何が不思議なことが起こったとは感じているかもしれない。しかし、その感じ方はそれ以上先に進んで死に及ぶとことはないのだ。

ゆえに、わたし達人間にとって、死の現れ方はその様相を個々で異なりうるのである。地球上に、人間以外で、非常に独自で、特別で、固な死の観念を持つ生物は存在しない。人間だけがこのような死を語り継ぐのは、「語り継ぐ」という形容から明らかなように、実際に文字によって物語を受け継いでいくからある。広範な意味での教育を考えてみると、諸動物の教育は一世代間伝達が限度である。しかし、わたし達は記述がされている限り、時間と空間を超えてあらゆるわたし達の祖先からの伝達を受け取ること(コミュニケーション)ができる。だから、人間はその歴史のすべての死の観念を担ってさえいるといっても過言ではないのだ。

 

人間にとってだけ死の現出のされ方が異なるのには、生物学的機能として人間と諸動物間の脳容量差という事情もある。わたし達は自分自身がいつか必ず死ぬことを知っている(あるいは、すべての人間は自分がいつか必ず死ぬことを、知能的に知ることができる)。俗に、猫や象は死に場所を選ぶなどと言われるが、それは自身の体力の低下を悟った猫や象がより安全な場所に身を隠すための行動(その多くが隠れるべき場所に隠れたまま死んでしまうため、その死は人目に留まらない)というのが恐らくことの真相であって、実際に死に場所を選好しているということは決してない。だが、人間は自らの死期をかなり明確に悟ることができる。地域ごとの平均寿命値もその指標になりえるし、現在の日本では通常重篤な疾病が診断されずにそのまま死に至るということも皆無に等しい(自殺を含む事故死を除いた突発的な死の減少)。このように、わたし達は自分がいつか必ず死ぬことを知ることができ、それが向こう約120年以内の確実な事実であり、猫や俗のように俗に言われるのではなく本物の意味で生きる場所も死ぬ場所も、真に自ら選ぶことができるのである。

 

こうしたわたし達の人間としての能力は、文化とはまた切り離された死の重みをわたし達に与える。自分がいつか必ず死なねばならないことを知りつつ生きることと、そのことをまったく関知せずに生きることでは、その生への態度が大きく変わってくるからである。生の延長線上に死があることを知らずに生きる諸動物はいわば盲目の走者であって、諸動物のこういった盲目的な生き方は、死への一直線な邁進に見える。諸動物は死を恐れないからそれに向かって邁進するのではなく、その生の果てに死があることを(あるいは死それ自体を)知らないがために生の果てに向かって先へ先へと急ぐのである。一方、人間はこの生という名のレースの果てに否応なく待っている死を見つけ、一直線にそこに突き進んでいくのを躊躇せざるをえない。そこで、盲目的な生にブレーキをかけて、自分が走らされている生というレースの全体像や仕組みを探ろうとする。しかし、そういった哲学的懐疑の最中にもわたし達は自分の立ち止まったつもりでいる土壌がにもかかわらず死へと滑り落ちつつあることに気付かないわけにはいかないだろう。その限られた生の時間を、ベッドの上で終始寝たきりで通してもわたし達が死ぬことに変わりはない。わたし達が足踏みしようとも、逆走しようとも、それよりも速いスピードで生はわたし達を死に向かわせる。要するに、死を知らなかったわたし達は動く歩道を更に走ってまでその果て(死)を目指していたと言える。わたし達に可能であったこと、してきたことはと言えば、死の不可能な破壊ではなく、より長くレースを続けるために道を舗装し、継ぎ足すことでしかなかった。これによって、わたし達は死を免れないまでも、前時代に比べて長く生きられる外的環境を獲得してきたのである。

 

しかし、長寿となった人生はわたし達に新たな弊害をもたらした。すなわち、人生が苦しみを内包し、場合によっては苦しみの連続である場合、レースの引き延ばしはそのまま苦しみの引き延ばしになることになった。尊厳死安楽死というタームが一般的に語られつつある現状を顧みれば、こういった問題が杞憂としてではなく現前しつつある問題であることが理解可能であろう。ここで一つ重大なことが明確になってくる。それは、わたし達は時に生よりも死を選ぶ場合があり、それが最高機関(法)で承認される場合さえある、ということである。わたし達は死を苦しみそのものと考えがちだが、死そのものは苦しみを伴わない。わたし達が苦しいのは、死んでいる時ではなく、まさに死につつあるその時でしかない。死につつあるその時、というのは、その生が死に脅かされている瞬間の継起を指す。つまり、わたし達に内在する生への意志が死に抗おうとするためにわたし達は苦しいのである。これは諸動物についても同様であり、何らかの怪我を負った個体がその怪我を苦しむのは怪我がその個体の生きる意志を妨害するからである。怪我を負った個体がそれでも何処かへ向かおうとするのは、生の意志が生きさせようとするからだ。しかし、わたし達は必ずしも諸動物と同様の行動を取るわけではない。わたし達には怪我による余りある苦痛を解消するために自ら死を選ぶようなケースさえあるし、実際にそのような選択の可能性は常に存在する。この地球上において自ら死を選ぶ個体は人間だけだが、これは、本来動物にはあってはならない行動である。それがどんな種類の自殺であれ、それは諸生命に内在する生への意志(盲目的な欲求)の否定になるからだ。

 

生命が自身への盲目的な欲求を持つことは自明でなければならない。だからこそ、人間以外の諸動物はあのように生から死へと至るベルトコンベアーの端から端を迷うこともなく駆け抜けて行けるのである。例えば、任意の季節に咲き誇る花が自身に内在する盲目的な生への欲求に疑問を抱き、開花することをやめてしまったらどうだろうか。 同じように、地球上のあらゆる存在体がオートマティクに哲学的懐疑を挟み込んでしまったら、それは適切に機能しなくなるに違いない。この意味では、死に対して独特の観念を持った時点で、人類という種はそれ自体で支障を来した種と言えるのではないだろうか。生への盲目的な欲求が一種の有機的なプログラムを働かせる命令系統で、それによってある一定の環境が再生産されているのだとしたら、人間はそのプログラムから逸脱した存在体である。そして、この逸脱が問題になるのは、個体の生成と消滅が一定の環境の再生産に欠かせない要素であるとしたら、この枠組みの中では個体の死はその意味を十分に説明することができる、という点においてである。この枠組みを期せずして脱してしまったわたし達は、多くの場合わたし達の死の意味を失ってしまった。にもかかわらず、死の性質そのものは損なわれずにあるので、わたし達は死に対してそれが絶対的に不可避でありしかも無意味である、というネガティブな解釈を与えるようになる。また、このように生命の枠組みから片足を外してしまった人間が、前述の宗教的解決(死後の想定)を発明せずにはいられなかったのも肯ける「理屈」である。宗教的解決は死を生の終点とするのではなく、死後という更なる延長を置き、それを肉体上の一通過点に過ぎないと看破することによって死を取り除こうとしたのだ。

 

実世界において、わたし達に与えられた指標の多くはわたし達を死から遠ざけるものばかりであり、個人的経験に基づけば、わたしは義務的な教育過程から、人間であればこの私も例外なく死ぬ、という教えを授かったことはない。また、通常の親権者もその子に、その子が確実に死ぬことを教育したりしないだろう。わたし達が教授してきた近代的教育とは、未来という将来の持続性にもとづいてされているプログラムである。確かに、わたし達にとって快適な未来を想像することは愉快なことであるが、多くの場合、わたし達はその想像されたとおりの未来を生きることは、ほとんどない。少なくとも、わたし達は約10年後のこの同じ世界に、現在と同様にかくしゃくとして存在してはいない。そういった極めて有限で短命な存在体であるわたし達個々人にとって、わたし達の死後の世界の様相に何の興味が沸くのだろうか。

 

わたし達に義務的にされる教育には、この死の視点がきれいに抜け落ちているから、わたし達は死を社会の外部から見つけてくる。例えば、わたし達は、それが犬であれ猫であれ、魚であれ昆虫であれ、生き物を飼育すれば(大抵そういった生き物はわたし達よりもかなり早く死んでしまう)、わたし達はそこに「最初の死」を見つける。あるいは祖父母といった年の離れた肉親の死や、不慮の事故や病による近親者の死を見るだろう。そういった「事実として死」が現前した時、わたし達の培ってきた、生にとって有益なあらゆる知識体系は、名指し難い衝撃の前に無効を宣告される。死者がわたし達にとって代替不能な存在であればあるほど、その死はわたし達にとって納得できないもの、合理的に説明のつけられないものとしての強度が増す。今そこに現前した死に、わたし達が軽々とイマージュした未来は、もろとも奪い去られてしまう。わたし達は社会に生きる上で様々なものを獲得して生きていくわけだが、わたし達は生の過程で得たものを何一つとし死に持ち込むことができない。文字通り、わたし達は裸で生まれ、裸で死んでいかざるをえないのだ。

 

死に直面する時、わたし達はわたし達人間の生ではなく、諸動物の盲目的な生こそその生の理に適っているのではないか、と思わずにはいられない。明らかにわたし達は生を遠回りしているようだが、生の苦痛を自ら増しているように見えるからである。わたし達は、死を、ただ事実としての死と認識することによって死を明確にするのではなく、およそあらゆる観念を付与することによって死の観念を肥大化させ、より恐ろしいものに仕立ててしまっているのではないのだろうか。

 

日常言語にすら、悠久の物語が染み込んでいる以上、それをただ死と呼ぶことによってさえわたし達は死の存在しない側面を語ってしまう。しかし、何事かを認識する際に言語化が必要不可欠である以上、わたし達は可能な限り事実に即した、あるいは利益のある物語を編むべきであろうし、そうすることでしか私たちはもはや生きるのが困難な世界に立ち向かえない。かつて宗教が解決するより他なかった超自然的とされる現象にも科学的な説明がされるようになったにもかかわらず、わたし達は今でも「嘘つきは閻魔に舌を抜かれる」などという喩えをときに用いたりするが、それは実際にその閻魔の棲む場所が信じられているからではなく、方便としてだけ用いているからにすぎない。現代は死に限らずあらゆる現象の蒙昧が破られつつある時代である。わたし達の時代にとってこれまでの死の物語は時代のモードに即さない、書き換えられるべき物語なのである。だからといってこれを完全に否定して打ち捨ててしまうのではなく、わたし達はわたし達の死に見合った、わたし達の死という物語を築いていくべきなのだ。繰り返すように、死は取るに足らない平凡な事実なのだから。