優しい止まり木

一昨日訪れたbarのカウンターで、隣で酔いつぶれて寝てしまった中年男性がいました。


オーセンティックなbarでそんな失態をやらかすのは無粋の極みですし、僕はどうしても好きになれません。
例えどんな事情があるにせよ、マナーというものは守るべきだと思います。

しかし、流石はプロのバーテンダーというもの。そういうお客さんにも、優しいのです。
寝冷えてしまわないようにそっと膝掛けの毛布を差し出されます。
時折発する呂律の回らない言葉でも、文脈をつなぎ合わせて何とか対話をされます。

もしかすると、その中年男性は何かしらの問題を抱えて、酷い孤独を感じながらbarの扉を叩いたのかもしれません。今日だけは酔い潰れてしまいたかったのかもしれません。
そう言えば、寝顔の目にはうっすらと涙が浮かんでいたような…

 

人が酒を求め、そして人を求めて、来るbarのカウンターテーブル。
bar tender(優しき止まり木)は、その人を決して否定はしません。
とはいっても、積極的に肯定する訳でもなく、あくまでも暖かい目で見守り、時には影ながらアシストしてくれます。

…そう言えば、旭川に初めて来て風邪を引いてしまったときに頂いた、生姜のスパイスの効いたモスコミュール(これは、別のbarで「何か、体が良くなるものを」と、お願いして作ってもらいました)の味を思い出します。

風邪の寒さよりも、まだ見知らぬ土地で1人で風邪になってしまった、そのことがより一層「こころ渇き」を催していました。バーテンダーの方は、そんな僕のこころを、そっとうるおしてくれました…

 



声に出せぬ、孤独、生きにくさを感じてしまっている人に、多くは語らずとも心地よく過ごせる時間と空間を提供できること。
それはプロではなくてもできる仕事であるけれども、人任せには出来ず、他の誰かではなく「私」の仕事であるともとらえられないでしょうか。

目の前に苦しんでいる人がいても、そういう余裕を失ってしまっている「私」ならば、いつかは生きにくさを得て苦しむ側に自分が回ってしまうという想像ができないでいます。


「優しくなければ生きている価値がない」といういう有名な科白がありますが、そこま武骨に考えずとも、「自分自身の優しさの濃度」をちょっと調整するだけでもよいのではないかと思います。

僕自身はその調整が全然上手くないので、そういう機微をbarなり別の場所でなり勉強しなければなりません。
学校で勉強できないこと、本の知識で得られないことは、それなりの対価を支払って、人から間接的に学ぶしかありません。

 

 

 

 

“学校で僕らが学ぶもっとも重要なことは、「もっとも重要なことは学校では学べない」という真理である。”

(『走ることについて語るときに僕の語ること』村上春樹