―必然的に死ぬために、あるいはそれでも哲学するために―(3)
自殺した彼と僕はそれほど親しかったわけではない。
葬儀には出席したけれど、個人的に深い哀悼の意はなかった。
それは祖父の時とあまり変わらない。
彼がなぜ自ら命を絶ったのか、どんな事情があったのか、
それは僕の興味をあまり引かなかった。
(家庭の事情で悩んでいたとかなんとかという噂があったらしいが)
そんなことはもうどうでもよかった。
ただ、彼の壮絶な死に顔(幾分修復はされていた)
を見て焼香を上げた際は、以前の興味本位な軽薄さを侘び、
静かに冥福を祈った。
僕が彼のためにしてやれるのはそれくらいのことだったと思う。
しかし、学校側のその後事件への対処を見ていると少し哀しくなる。
事件が一通り過ぎると、本当に何事もなかったかのように、
「暇潰し」の日々が再開された。
仏教系の学校で、「宗教」という授業があるというのに、
なんらこの事件に触れて考察をすることもなく、
あいもかわらず仏教の教条や仏教史を延々とやるとは。
学級担任の教師達も、一月もすればもう忘れたかのようだ。
(毎年墓参をしているらしいけども…)
それから、同級生達も…
そんなものなのだろうか。
みんなの記憶から忘れらてしまうのが、本当の「死」なのだろうか。。
僕はこの事件を決して忘れることはできない。
中学の卒業作文で、記憶を形にしてみたが、
どうもそんなことを書く人間は僕一人のようだった。
(皆スキー合宿や部活動、修学旅行といった愉しい「思い出」 ばかり書く。まあ当然ながら、不愉快な思い出など
残したくないのだろうが…)
ある教師には、「こんなことをわざわざ書きやがって」と暗に批判された。
なぜだろうか。
そんなにみんな死は「避けたい」ものなのだろうか。。
死ぬのが分かっている生き物は人間だけだとしたら、
死を考えないのは全く損な生き方ではないだろうか。
それは昨年最後の日記でも書いたとおりだ。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=306185971&owner_id=4554389
今でも、僕は(ほぼ毎日)死について考えることにしている。
ある哲人の箴言にあるとおり、
「生涯をかけて学ぶべきことは死ぬことである」という信念は、
全く揺らぐことはないように思う。
いや、死について思いを巡らすたびにますますその考えは、
強固なものとなっているし、現に今もそうだ。
僕がなぜ、哲学そして倫理学を志したかも、
もう大分とはっきりしてきたし、これ以上仔細に語る必要はないだろう。
いや、誰かにそれを説明したくて語ったのではなく、
僕自身がそれを強く願っていたからだ、ということが漸く
今にしておぼろげではあるが、分りつつある。
これは今まで僕が未熟ながらおこなってきた思索の中で
最も有益なことではないか。
そうだとすれば、哀しみから出発して、迂遠ながらも
今日はある到達点に至ったじぶんに、
手前味噌ながら、謙虚に祝意を添えたい。
僕は確かに死ぬ。
しかし、そのまえにこの世の「真・善・美」(美は、また前二者と
性格を随分異にしているが、ここでは敢えて触れない)
をじぶんなりに探究してしておきたい。
どれだけ探究すれば、満足するだろうか?
いや、決して満足はしないろう。
そして、満足せずに、失意のままに死ぬだろう。
それでも、いやそれだからこそ、僕は己の哲学を求めてやまないのだ。
いまや僕にとって世界は真剣に生きるに値するものとなりつつある。
では真剣に死ぬことも、また必然ではないだろうか。
だとすれば、己の哲学が求めるところに従って生きてみよう。
僕が生涯をかけて学ぶべきものは、つまるところ、それだ―