怒りについて

(以下の文章は筆者が当時20歳、2006年11月30日に投稿された日記を一部編集した記事です)



昨日、告白すると、私はある人々に対して、大変な怒りを覚えた。

立場の違いや、その場の雰囲気や、

もはや自分自身の理性までもをもないがしろにして、

その怒りをぶちまけたかった。

目つきがやおら鋭くなり、息遣いが荒くなり、背筋が硬直し、

無意識に舌打ちをして、彼らに今にも襲いかからんとしていた。

怒鳴り声を張り上げ、彼らの顔面に平手打ちを食らわせたら、

どんなにか胸がすくだろう、などという残虐で野蛮な思考が、私を支配しかけていた。

 

それはもう、狂気だ。錯乱だ。

私は、全く別のことに集中しなければならないのに、

そのような愚かで蒙昧な、そして著しく無思慮で、倨傲な…

 

ああ、形容するのが全く馬鹿馬鹿しくなって、

吐き気を催すほどの怒り!!

 

 

 

私は、その中で早く刑期を終えて出獄せんと欲する焦りに、

瀕死の理性の寄る辺を何とか見出していたのだった。

 

 

多分、その場に居合わせた人には、

私の異様な緊張や苛立ちが知られてしまったことだろう。

私は、当座を凌ぐに、もうそれはかつてないほど必死だったのだ。

 

 

これほどまでに、他者に対して覚えた凄まじい怒りは、

ここ数年来は全くなかったと、断言できる。

くどいようだが、相手への侮蔑、罵声、暴言が、

もう今にものどの辺りから威勢よく飛び出すところだった。

 

 

今思い返してみると、それはひどく大人気ない、

子どもじみた情念からだし、

どちらかと言うと、じぶんの方に非があるのではないかと思われる。

しかも、全く瑣末で、もし怒りが噴出していれば、

他の人々から見れば、きっと私の方が幾分かは、

非難されるべき理由なのだ。

 

 

 

だが、その時の私の、猛り狂った情念に言わしめれば、

全くもって怒りの対象に対しては、

「奴らの言うこと、成すことの一々が不愉快で、気にいらず、

その存在を今すぐここから抹消すべきである、

さもなくば、奴らは絶対に許しておけないから、

ここでこの私の罰を下さねばならぬ!!」

というように声高らかに、宣戦布告を言い渡す具合になるだろう。

そして理性の出る幕を、さっさと閉じてしまい、

己が独壇場に、いい気になってふんぞり返っているところであろう。

 

彼(怒り)が、ひとたび、私の体内から超越すると、

それは、留まることを知らないように思う。

いや、それはもちろん彼の性格によるのだが…

 

 

 

私は、自分でも言うのはなんだが、

まあ滅多なことでは、本当に怒りはしない。

大抵は、へらへらして軟弱ぶりを発揮しているか、

さもなくば無意味に鷹揚としているか、

まあ後は、これもまた理由もなく憂鬱に沈んでいるか、だと思う。

(ひとが私をどのように判断しているかは、分らないが、

 まあ私としてはそんなところだ)

 

 

私は、自分が本当に怒ってしまったことを鮮明に覚えている。

なぜかと言うとそれは、とても数が少ないから、数えるほどなのだ。

多くの人の前で、私が本当の怒りを見せたのは一度だけだ。

これは、最も私の記憶に深く刻み込まれている。

 

 

怒りに至ったあらすじは、こうだ。

私が高二の時に、部活で次回の定期演奏会を開くに当たり、

選曲をどうしようかという話になった。

私は皆に曲を参考にして欲しいという好意で、

音源のCDを何枚か焼いて、これを全員に回してくれとお願いした。

CDはまあ、ほとんど皆が聴いてくれて、

参考になったと言ってくれた。

 

暫くして、私がミーティングでそのCDを返して欲しいとお願いした。

ところが、一つとして返ってこない。

訊いてみると、誰が持っているのかさえ把握できていないという。

 

私は困った。あれは今の部員にあげるために造ったのではない。

高校から吹奏楽を始めて、曲情報に疎い部員達のために、

これからも保管して、貴重な財産として欲しかったからだ。

 

誰かがその時に、

「どうせもうデータはあるのだから焼けばいい」とか、

「俺失くしたみたいだから、もらおう」とか、

陰で言ったのを私は覚えている。

 

 

その時、私は初めて皆の前で激しい怒りを露わにした。

何を言ったのかは殆ど覚えていない。

ただ、特定の個人を名指しで非難したりはせずに、

部全体のあり方にやり場のない、哀しい怒りをぶつけたように思う。

だがあの時は、論理的な振る舞いをしていなかったのは事実だ。

 

最初は怒りに身を委ねる気はなかったが、

段々と、皆の前で指弾を重ねていくと、

その発せられた言葉言葉が、私を激情に駆り立てた。

 

頭に沸騰した血液が遡上し、瞬きが出来ぬほどに目が充血を始めた。

身振り手振りは、そこいらの選挙前の政治屋気取りで、

ひどく大げさになり、口角泡を当たり構わず飛ばし、

あまりに早口でまくし立てたものだから、舌を噛み切りそうになった。

もはや、私は誰にも止められはしなかった。

 

だが…

私を見る皆の顔に、私の視線が注がれた瞬間、

私でない私は、止んだ。

 

皆、今の私が本当の私であるのかが判別できぬと

言わんばかりの困惑を浮かべ、

それから、贖罪のために打ちひしがれた有様だった。

 

 

私は、堪えきれずに音楽室を後にした。

 

 

 

それから、独りで何やらわけもなくひとしきり泣いた、と思う。

それは、皆に対する申し訳なさであり、

自分の怒りというこの忌まわしい情念に対する、恐怖だった。

人間、誰しも我を忘れて、別人のようになることが、

あるとは聞いていたものの、

この怒りというものに対しては、本当に、私の経験からそう思う。

 

私はそれ以来、もう人前で自分の本当の怒りを見せるのは、

金輪際よそう決めた。

 

 

だが、この感情にはごく稀に襲われることがあるから厄介だ。

昨日のように‥

 

一体、この化け物とどう対処したらよいのだろうか…

 

ここは、先人の智慧に助けを求めてみよう。

 

 

アリストテレスはこう述べている。

 

「然るべき事柄について、然るべき仕方において、然るべき時に、然るべき間だけ怒るひとは賞賛される。かかる人は『穏やかな』な人といえよう。賞賛されるのは彼の穏やかさなのだからである

(ニコマコス倫理学 1125b32)

 

 

アリストテレスによれば、人間は、どちらかというと怒りに関しては、

過度に向きやすい傾向があるものの、かといって、

怒るべき事柄に対して、全然怒らないひとや、少ししか怒らない人は

「意気地なし」だから、非難されるべきだという。

 

 

どうだろうか。

 

確かに、侮辱されて怒りを覚えない人には、私も共感は出来ない。

これは「キレる」のとはまた別の話だ。

だれもが見て怒るべきことに関して怒るのは、

当たり前だと私も思う。

 

だが、客観と主観の線引きが難しいのが問題だ‥

 

モンテーニュも怒りについて興味深い記述を残している。

 

「われわれ自身も、立派に振舞うためには、われわれの怒りが続いているあいだは、召使いたちに手を出してはならないだろう。脈が激しくうち、興奮状態にあると感じるあいだは、やりとりをあとへ延ばそう。落ち着いて冷静にかえったときには、ほんとうに、物事はちがったすがたでわれわれに見えるだろうから。怒っている時には、命令を下すのは情念であり、ものを言うには情念で、われわれではない」

 (モンテーニュ『エセ−』「怒りについて」)

 
問題は、このマグマのような「情念」なのだ。情念という悪魔に乗っ取られると、われわれ、すなわち理性など簡単に雲散霧消してしまう。

 

「怒りは、隠そうとすると体内に入り込んでしまう。(中略)

私は、そのような賢そうな顔つきをするために私の気持ちを苦しめるよりはむしろ、多少は場にそぐわなくても、召使の頬に平手打ちを一発食らわせることをお勧めする。私は自分に損をかけていろいろな情念を抱きかかえているのよりは、それらをおもてに表し出すほうがいい」

 (モンテーニュ、同上)

 
…え、結局情念に負けて暴力をふるっちゃうの?
ちょっとちょっと、それはいくら何でも不味いだろう…


召使いだったらいいかもしれないけどさ(いや、暴力はダメ、絶対)、先輩や上司や子どもや配偶者にビンタしたら、相手も自分も傷つくし社会生活が破綻しかねないぜ…

 

「私が怒るときは、できるだけつよく、しかしまた、できるだけ短くひそかに怒る。かなり激しく混乱はするが、あらゆる種類のののしり言葉を手当たり次第になんでも構わずどんどん投げつけたり、また鋭い言葉を、それが相手を最も強く突くと思えるところに置くよう気を配らなかったりするほど乱れてしまうことはない。私はふつう、怒るのに舌だけしか使わないからだ」

 (モンテーニュ、同上)

 

うむ、アンガーマネジメントとして王道ですな。ちょっと安心。

我慢は良くない、というのも全く一理ある。

しかし、怒る相手は召使だけではあるまい…ね?

 

モンテーニュも高級官僚(法官)だったから、頭にくるクソ上司とかトチ狂った訴訟当事者を相手にして、さぞかしイライラすることがあっただろう…そんな時に我慢して大丈夫だったのかな?

どうやって、彼は怒りと向き合っていたのか。
怒りには対処療法しかなくて、根治はやっぱり無理なのだろうか?

そう思いつつ読み進めていくうちに、私は彼のモラリストとしての本領発揮ぶりに、またしても大いに感銘を受けた。

 

「しかし、もし怒りがわたしの先手を取り、ひとたびわたしをとらえれば、それは、どれほど空虚な原因からきたものでも、私を連れ去ってしまうのだ。それで、私は、私に反論してきそうな人々と取り決めをする。『私のほうが先に興奮したと気がつかれたら、まちがっていようが、正しかろうが、私にそのまま言わせておいてください。私のほうもかわって同じようにしますから』と。嵐は、いくつかの怒りが競り合うときにだけ生ずる。怒りはお互いに相手から呼び起こされるもので、同時には生まれてこないものだ。ひとつひとつの怒りに、それぞれが走っていく道筋を与えてみよう。そうすればわれわれは常に平和でいることになる。有用な命令だが、実行は難しい」
モンテーニュ、同上)

 

 

 

怒りに道筋を与えること、これはやはり大切なことだ。

とっさにはなかなか難しいが、それが理性的であるためには、

必要条件になってくるのだろう。

 

怒りに与えてやるのに必要なのは、我慢や爆発ではなく、

それを冷静に見つめて逃がしてやる手立てだ。
心の平和を導くには、怒りの当事者である自分や相手ではなく、
怒りという情念そのものに向き合うことなのだろう。




さて今日、セネカ『怒りについて』を買った。

(注:これを期に筆者はセネカを始めとするストア派哲学者に心酔していく)

 

まだあまり読んでないのだが、少し引用してみよう。

 

「何ゆえにわれわれは、まるで永遠の世界にでも生まれたかのように、いつも好んで怒りをぶちまけ、きわめて短い一生を駄目にするのか。何ゆえにわれわれは、高貴な楽しみのために費やすべき日々を、好んで他人の悩み苦しみのために向けるか。そのような財産の浪費は認められないし、また時間の損失も許されない」
(セネカ「怒りについて」)

 

 

 

ああ、そうか、そもそも怒っても本当にろくなことないんだね…

怒ってもいいことなんて一つもないと諦めてしまえば、
どんなにカッとすることであっても、怒る気力さえなくなっちゃう。


うーん、でもそうはいっても怒りたくなるようなクソな事件は人生には往々にして事欠かないからなあ。。

で、結論、怒りの解決に関してはこれが一番しっくり来た次第。
根本的な解決ではないけれど、「予防治療」には最も的確だろう、と。

 

 

 

「自分で怒りを抑えるには、他人の怒る姿を静かに観察することである」

(セネカ、同上)