僕とチョコレートのテーゼ

もうすぐホワイトデーだなあ、と思いつつ今年も母親からもらったものしかないので、返しようもなく、自分で買ったほろ苦いチョコレートを今日も一つ。
チョコレートは美味しい、それは絶対的な善である。という信念は今も昔も変わりません。
そういえば、昔の自分はこの時期どうだったのだろうと思いつつ、振り返ってみました。

(以下は、筆者が20歳の当時、2007年02月06日にmixi書いた日記です)

 

 

 

チョコレートが好きで、また昨日も買って、食した。
僕がチョコレートを好きになったのも、不思議なことにこと一二ヶ月のことで、
でも多分「えたいの知れない不吉な塊」とは何の関係もないはず。
チョコレートは、あれこれ説明不要で、ただ善い。
でも僕は勝手に説明したい。拙いけど説明したい。
誰に説明するのでもなく、そういう衝動に駆られてしまう。
どんなチョコレートが好き?とか細かい趣向は問わないで欲しい。
端的に言って困るから。
音楽や小説と同じで、チョコレートも素人だから、
「ただ善い」としかまだ言えないのだ。どうかご容赦願いたい。
僕も頑張って、チョコレートを買うときは本やCDや服を買うときと同じく、
あれこれ相互に比較して、検討して厳選ではいるのだけども、
まだ、どういうものだか自分の好みが把握できてない。
(コンビニの細い通路で、長時間に渡り、菓子箱を手にとって、
成分表や原材料、製法などを厳しい目つきで参照しながら、
ああでもないこうでもないと苦悩する滑稽な男が、
冷ややかな視線を浴びせられるのは言うに及ばない)
ただ、一つ。苦いものが好きだというのは最近わかってきた。
甘いも勿論重要な要素だけど、あのカカオの薫り高い苦みが
程よく感ぜられないと、駄目だ。
そうなると高級志向になる。いけない、キッチュでも駄目だ。
まあ、大抵のものを食べても「外れは無い」と言える程度に
嗜好の範囲を広げておかないと、チョコレートそのものも楽しめない。
それはどんな対象でも同じ。


カカオの格調高い香ばしい匂いを、いやらしくならない程度に愉しむ。
けれども、手が早くそれを鼻から別な場所へ動かすことを求める。
あの黒い固形物を一口に放り込む。
パリッと音を立てて、ゆっくり咀嚼する。
そうするともう溶け始める。
この時歯に優しく当たる感触が堪らない。
ドロッとした液状のものが、すうっとした甘みとともに、口蓋の中を駆け巡る。
やがてその甘みは次第に勢力を強めながら、喉へ行こうとする。
でも僕はこのドロッとしたものをもう少し弄んでおきたい。
(最初っから噛まずに、舌で転がしてやるのもいい。
 その場合は、もう少しおしゃべりが許される)
ドロっとしたものと暫く戯れてから、唐突にぐいっと奥のほうにやる。
そうしたら、食す前の最初の香りが、最上級になって鼻のほうへ来る。
ほんの一瞬だけど、それが至上だ。
嗚呼、最後にして最高がやってくる。

でも、チョコレートを食べるのにそんなに多くの愉しみは要らない。
一つだけでいい。
梶井基次郎風に言えば、こうだ。


―つまりは、この食感なんだな―


その食感こそ常づね尋ねあぐんでいたもので、
疑いもなくこの食感はすべての善いものすべての美しいものを
味覚に換算して来た食感であるとか、思いあがった諧謔心から
そんな馬鹿げたことを考えてみたり―なにがさて僕は幸福だったのだ。
(引用、改変)


そういうことだ。
僕の「えたいの知れない不吉な塊」も、
チョコレートをただ食べるだけで癒される。
でも、チョコレートの善さにも、
「ただ」という言葉を僕は使いたくなる。それが、また寂しい。
一体、使わないほうがよいのだろうか?




そう言えば、もう直ぐバレンタインデーというものがやってくる。
このバレンタインデーというものに、今まで何か縁が
全くなかったわけではないけども、
どういうわけか、僕はこの日がクリスマス(イヴ)に次いで、
嫌いだった。
(今は、なんとも思ってない、多分。)
まあただの幼稚なルサンチマン、怨念だったと思う。
勝手にその日になると、心中では秘密弾劾裁判を行っていた
ような陰険馬鹿だったから、仕方ない。
チョコレートなんて貰っても、さっさと味わうこともなく、
胃袋に放り込むという暴挙に出ていた。
他の食べ物や菓子類と区別して特別な思い入れもなかったから。
チョコレートをあげる側も、もらう側も、こんなモノで
愛情確認(もしくは義理確認?)を目論む共犯行為が
そんなに愉しいのだろうか、ただのチョコレートで。
お目出度い人達が、日本には大勢いらっしゃることで。



まったく今から見れば、恥かしくなるし、馬鹿げてる。
今は、この日がとても待ち遠しいのだ。
別に、僕がチョコレートをもらえるから、というわけでもない。
僕は今はチョコレートがめっぽう好きだから、これは善い、
理由もなく絶対的に善いと思ってる。
だから、僕以外の人がチョコレートをあげたり、もらったりして、
それで喜ぶなら、これはなんて素晴らしいことだと考えてしまう。
じぶんの好きなものが、人に大いに受け入れられるなんて、
と考えただけでもわくわくする。
チョコレートごときで、いや、チョコレートだからこそだ。
チョコレートでこれほどまでにコミュニケーションに貢献できるなら、
なんと「お買い得」なものだろう。

ただ、次の点を僕はチョコレートを、そしてバレンタインデー
を愛するものとして、強調しておきたい。
チョコレートをもらった人には、是非とも、
ただチョコレートそのものを味わうだけでなく、
そのあげた人のこともあの甘さや苦さと一緒にゆっくり考えてほしい。
本命だろうが義理だろうが、程度の差はあれ、
相手のことを想う、という点をどうか忘れないで。
そしてあげた人は、あげっぱなしではなく、
もらった人が何を思いながら食べているか、
ちょっとでもいいから考えてみてほしい。
それから、あげる人に対する想い入れの差はあっても、
「じぶんがある人にあげるあのチョコレート」に対して
何か特別な「とっておき」を、チョコレートを買うとき、つくるとき、
あげるときのどれかに、少しでいいからこっそりチョコレートと、一緒に込めておくと、善いなあと僕は思う。
(僕はチョコレートをあげたことがないから、なんとも言えないけど)

僕は、1人でも多くの人がそんなことを考えながら、
そんなことを考えながら、チョコレートを買ったり、つくったり、あげたり、もらったり、
それから食べたりして、みんなが幸せを感じる光景を想像しただけで、
本当に、すごく幸福な気持ちになる。
これも、僕のまことに身勝手な価値観で、当然論理的でもないけど、
絶対的に善いことだと思うから。
ここには、もはや「ただ」なんて言葉は付けたくない。
「絶対的な善さ」なんて定義できないし、存在しないけれども、
(それは、ある哲学者が言うように「語りえない」)
「絶対的に善いもの」はこの世のどこかにあると確信して、
それを探していこうとすること、その態度はとても大切だと考えている。
簡単に「これは絶対的に善い」なんて言葉を口にだすことは
憚られるけれども、ごく身近なところから出発して、
それ(=絶対的に善いも、もしくは「それはなぜ絶対的に善いものなのか」と問うこと)
を真剣に求めていきたいのだ。
これは最近ではなく、中学生の頃あるショッキングな事件を
目の当たりにしてから、漠然と考えてきたことなのだ。
(だから僕は哲学ではなく、倫理学という学問を専攻することに決めたのかもしれない、と今やっと気付いた)



ま、カタイ話はそこまでにして、改めてバレンタインデーの話。

そう言えば告白しておくと、
僕も、ある人からチョコレートをもらいたいと考えている。
本命だろうが、義理だろうが、高級チョコだろうが、五円チョコだろうが、
それはさしたる問題ではなくて、
ただ、その人から直接チョコレートをもらいたい、ただその一心なのだ。



わかってはいる、もうほとんどその望みは薄いということは。
でも、欲しい。
それが、「絶対的に善いこと」だなんて判断するのは、
あまりにも恣意的で独断的だけど、どうしても欲しい。
何故だろう、もしその人からもらったチョコレートを食べたら、
あの「えたいの知れない不吉な塊」は消え去り、
いつも「善い」ものに触れたとしても、けっして付ないではいられない、
「ただ」という言葉を自分に禁じることが出来るようになる気がするのだ。
そしてもう少し、僕は世界を真剣に生きるに値するものと捉えられるような気がする。
だから…




愚かな妄想がこれ以上暴走する前にチョコレートで一服しよう。



チョコレート効果99%」という、
とびきり苦いチョコレートを一切れ頬張ってみる。
(僕はこの他に無い苦さが好きで、たまに購入してはストックしてある)




よく分からないけど、この一つの絶対に苦いはずのチョコレートが、
何故だか口の中で溶け出す、ほんの一瞬、
かすかではあるけども、確実な、絶対に確信のできる
甘さを精一杯発揮したのだ。
これは不思議だけど、どうしようもない。認めるしかない。
まあ、そういうこともあるかもしれない。
味覚なんて当てにならないものだ。
というか、僕の味覚が異常をきたしたのではないか、
そうだとしたら大変だ、好みに関わる。
ここは確認しておかないと…

そこでもしや、と思ってもう一つ入れてみる。















やっぱり苦い。途轍もなく苦い。
僕が好きな苦さ、そのままだ。三つ食べても同じだった。


安心した。
そして、なにか思い違いをしていた自分に暫く苦笑して、もう黙った。
それから静かに、もう何も考えたくなかったので、
机にもう二度と目に触れないようにしてそのチョコレートを閉まった。
それが今日。