自背録(6) ―雑駁、雨、祇園祭―

夕方からの、折からの激しい雨。

 

5限の授業を欠席して、大阪から京都に戻り、 皮膚科での診察を終えると、

重苦しい曇天はいつのまにやら既に臨界点を突破していたようだ。

この時ほど、自転車という乗り物がこの上なく不便になるときはない。

でも、しょうがない。

 

そのままその、不便な乗り物を錦通りを押しながら通って、

新京極、寺町界隈をふらふらする。

いつも通りの、疎らで適度に猥雑な人並みが僕の神経をなだめる。

平日の18時過ぎという時間帯。木屋町の酒場に繰り出すにはまだ早い。

錦界隈はほぼ閉店し、勤め帰りの人間も多少通り過ぎた頃…

 

今はこれくらいで、丁度いいのだ。

これくらいが。

 

今年も祇園祭には行かなかった。

ひとりで行っても仕方がないが、

昔はひとりでも行きたかった。

ひとりで何十万という群集に飛び込みたかった。

押し合いへし合いの熱気に浮かされ、

じぶんも彼らの思考形式に乗っかり、

しかし一方で、行く川の流れに身を任せてたゆたうように、

その中でゆっくりととろけていくように、

ひとりを感じるのが、とても心地良かった。

 

密集の暑苦しさ、ぎこちなさ、身体の歪みという不機嫌はあっても、

時間を忘れていた、という思い出が後でやってくるのだから。

それでお十分釣りがやってくるのだから。

 

その満足は、このイベントを僕にとって何ものにも変え難いものにしていた。

似た経験は地元の節分祭や平安神宮での初詣でも得られたけれども、

祇園祭には及ばない。

 

一つ年をとると、その後でいつも祇園祭がやってくる。

だから誕生日が近づくと、そっちの方が気になって仕方がない。

 

とても、そわそわしてしまう。 わくわく、とか、ぞくぞくとかというよりもそわそわする。

鉾もあの囃子も観ると、感慨を一入催したけど、

やはり人、人…兎に角人を沢山見るとそわそわする。

家族で行っても、友人と行っても、連れ合いといってもそうだったように、

自然早足になる。早くあの中で揉まれたいと思う。

飛び込んでいって、熱気に浮かされたい。

 

 

だけど今は、今は全然そうならない。

全く悲観すべきかもしれないけど、

僕はもう群集にまみれても、いくら頑張ってもそうはなれない。

人込みは、口で言うほど今でも嫌いではないけど、

もはやその中では、どんな感情も色濃いものではなくなっている。

 

僕はそれに自分でも気付いて、はっとすることがよくある。

祇園の人だかりに興奮を覚える年頃でもないだろうがが、

なぜだか、集団の熱気、喧騒が、かえって高揚感を薄らいだものにしてしまう。

すぐさま集団から足を引きたくなるわけではないけれども、

集団を経験した後はいつも、うんと落ち着いてしまっている。

それはそれで、いくらか喜ぶべき性分であって、

普段疲れた時には利用することはあるけれども、

それにしてもその精神作用は全然よく分からない。

いったい、なぜだろう?

 

 

 

 

自己反省を加えたところで、

結局は至極単純な結論か、それとも

更なる迷宮しか見出せないなら、沈黙する方が無難だ。

どうせ祇園祭には行かずに、

後で考えた頭にわかったような 口は自分にきかせたくはない。

 

 

雨を呪う声が聞こえる。

祇園祭は、大抵一日程度こっぴどい雨にやられる。

昨日の雨もひどかった。

こんなにひどい雨は、今も昔も歓迎しない。

びしょ濡れでも熱気は冷めないけれども、勘弁して頂きたい。

 

ただ、祇園の雨は人通りを少しはまばらにさせる。

酷い雨が降ると、群衆は蜘蛛の子を散らしたように去ってしまう。

熱気と喧噪と高揚が入り交じった猥雑さが希釈され、非日常が日常へと戻っていく。

祭の終わりまではもう幾ばくもない。

 

僕は、その祭の幕引きを告げる雨がだんだん好きになり始めてきたのかもしれない…