アマチュア主義者宣言。と、父をめぐる回想と決意

(以下の文章は約5年前、21歳の誕生日に書いたものです)

 

 

誕生日なのにのっけから重苦しい話ですが… 

21にもなって、何か方向性らしきものが掴めた気が全くしません。 
これは生活態度はさておき、最近の読書傾向に顕著かと思う次第。 
専門分野とは違う、文学や美学、史学、 
もっと離れて理系では数学基礎論や宇宙科学に目が行きがちです。 

今更あくがれるのもいかがなものか 
と思案しつつ、専門分野の勉強もするんですが、 
もはやテストを前にして手付かずな昨今の状況… 

いろいろ考えていたところ、 
適当に加盟していた「アマチュア主義」というコミュニティーにこんなことが書いてある。 




アマチュア主義者のためのコミュニティ。 

・衒学やファッション、虚栄のためではなく、ただ単に考え 
 抜くために学際的に学ぶ人。 
ジャーゴン・隠語・専門用語にできる限り頼らずに、他人 
 に理解してもらう意志のある言葉で発言・対話しようとす 
 る人 


アマチュア主義とはE.W.サイード著『知識人とは何か』 
に出てくる言葉で、 

1.利益や褒賞を動機付けとはせずに、愛好精神と抑え 
  がたい興味によってつき動かされる。 

2.特定の専門分野・専門職という制限から自由になって 
  観念や価値を追及する。境界や障害を乗り越えてさま 
  ざまなつながりをつける。 



これを読んで、ひどく腑に落ちたのを感じました。 

私はたとえ将来何かの専門に就いても、 
志向としては常にアマチュア主義者のままでいようと。 
そして、現在の不安的・流動的な状態では、 
アマチュア主義に徹するのが至極妥当だと。 


今日は史学系のある授業で臆面もなく偉そうなことを言いましたが、 
私には、専門を志すからには、どんな学問であれ、仕事であれ、 
明確な「問題意識」と「方法論」を自らで打ちたて、 
己に課さなければいけないという強い信念があります。 

学者であれビジネスマンであれ、あらゆる職業は、 
「それで生きていく」ためには、まずもってその専門に対するプライドが 
何かしらの形で根柢になければならないのでないか。 
一生涯ずっとその矜持の高さが不変であるとは言えないけれども、 
自らで選んだ道であれば、誰であれ持つべきことではないか。 
などと、柄にもなく高尚なことを考えてしまうのです。 

もちろん、世間・俗世の常で所帯をもち、しがらみができると、 
そのような理念は空疎なものになりがちで、 
金銭という「最後の綱」に寄りかかることでしか、 
己の労働の意義に対して活路を見出せないこともありましょう。 
子供心に仕事帰りにすっかり疲弊しきった 
父親の姿というものがそういうふうにしか見えなくもなか 
た、という経験が私にはあります。 
その時、未来永劫(永劫というのは飽くまで観念の話ですが)現実生活という皮相にからめ取られ、「義務」という名の妖怪に生き血を吸われ、何やら得体の知れない「大きな力」に 翻弄されている卑小な人間をそこに見ました。 
歯科医院院長という一事業主であり、世間体では良くしている彼が、 
明日をも見えない困窮に明け暮れる貧民に映りました 。
陳腐さを自覚しながらそれでも日々格闘する彼に対し、 
偶像崇拝に近いほどの尊崇の念を抱きましたが、 
それは同時に、あさましいほどの軽蔑の裏返しであり、 
また労働というものにたいして私が初めて 
抱いた観念がニヒリズムだったのも、彼に始原がありました。 

しかし、今や私はその姿を卑しく俗なものと退け、 
非難する気持ちはもはやありません。 
何も高邁な理念や精神が彼に見出せず、要求もできないがゆえに、諦念に至ったのではなく、それはただ単純な、 
極めて単純明快で(しかし理論の上ではどうのこうの言うのは困難ですが) 
私が彼の仕事場で目にしたことで、今私が現に感じつつあることです。 

この世間にありながら、もの言わずとも、 
労働の真価を問うまなざしを目の当たりにしたとき、 
そこに理念や精神を超えたものを、見たのです。 
そこには、「問題意識」や「方法論」を内在 、
いや、超越したものを見ました。 
そして私が感得していると、彼は全て分かったという顔で言いました。 


「これが、僕の仕事」 


後に彼と距離を置いた関係から、 
より近しい距離をもいとわないようになると 
(要するにそういう年頃だっただけですが) 
いろいろ喋るようになり、 
私は「問題意識」や「方法論」が彼は彼なりにあったという確信を得ました。 
彼もまた「人並み」な苦労をその半生において払ってきたわけではなく、 
この専門的職業を選択する際に、ただ祖父を受け継いだからなのではなく、 
やはり彼は彼なりに、決意の朝―それも日々不断の―があり、その所為が彼をして職業人たらしめたのです。 

たとい先祖代々受ついだ職業、これはしばしば前近代的といって批判されるものですが、 
彼らが一流たる所以は、専門家の専門家たる自負がそこにあり、 
またそこに「問題意識」や「方法論」なるものは先取りされているのではないか、 
などと、最近は酒場に出るために、 
なまじ人間の諸相をいい気になって訳知りをしてみたくなります。 

人は、選び取った道に対しては、その暗黙たる責務として 
多かれ少なかれ専門家たる意識を自然身に付けるものなのですね。 

しかし、それを意識化しないと気がすまなかった…
私は、容姿的にはさておきかなり「頭デッカチ」だと 
自己反省されて仕方がないものです。 
にも関わらず、どうしてそこまで信念に拘るというと、 
今「アマチュア主義」を頑として採用するならば、 
将来においては、これを「プロ主義」 
において自分なりに乗り越えねばならないからなんです。 
そのためにはアマチュア主義者でありながらも、 
「問題意識」と「方法論」をかなり念頭において模索せねばなりません。 
恥ずかしながら、父のような性格ではない私は、まず覚醒していかなければ、後先もたないからです(笑 


果たして、アマチュア主義者は、プロになれるのか。 
それともどっちつかずで、野垂れ死ぬのか。 


まあ、それほど根を詰めずに、しかしやるときはやる! 
という気楽かつ真剣な心持ちで21歳を始めたいと思います。 


今日も乱筆長文失礼いたしました。 
ここまで読んでくださった奇特な皆さん、ありがとう。