自背録(1)−恥について−

恥。

 

大いに恥じた経験は、後になって思い返してみると、

それほど大した後悔の念を催さない。

むしろ、その記憶は若干の苦笑が伴うことがしばしばだ。

それはつまり、我々が何らかの形で自分がかいた恥を

肯定的にとらえたい、という思いなしがあることに他ならないのではないか。

 

一方で我々は恥を大いに畏れる。

ことあるごとに前もって、恥をかかないかにひどく執心する。

その必死さは、自分以外の他者のどんなに穿った邪推にも及ばない。

いかにして恥をかかずに当座を凌げるか。

それが世間との交渉での大前提になっているからだ。

そのために、あらゆる労苦、金銭、時間を惜しまぬ者は驚くほど多い。

彼らにとって―いや「彼ら」ということのできない私にとっても―

たかが恥、されど恥である。

      

        せいぜい自分に恥をかかせたらよいだろう。 
        恥をかかせたらいいだろう、私の魂よ。 
        自分を大事にする時などもうないのだ。 
        めいめいの一生は短い。 
        君の人生はもう終りに近づいているのに、 
        君は自己に対しては尊敬をはらわず、 
        君の幸福を他人の魂の中におくようなことをしているのだ。 
      

        (マルクス・アウレリーウス『自省録』) 
             

 

しかし、私は恥をかくのを畏れないことなどできぬ。

恥はやはり怖ろしいものだ。

当面、この恥に悩まされてきた身とあって、

これからも恥を回避して通るのはもはや不可能だと思われる。

今更、強靭な自己意識を涵養しようという気概もない。

俗世にある限り、この煩悩とはこれからもお付き合い頂くことになろう。

ただし、私にも一つの信条として、あるいは私の性向からして、

「恥をかいたことは、それ以上恥ととらえない」という立場をとっている。

それは上述した通り、恥を肯定したい欲望にたいする、

私の都合勝手な算段であるともに、万一恥をかいた後悔という

ぬかるみにはまって、身動きができなくなる前に、

恥を滑稽に転化させようと目論む楽観主義的態度、

あるいはシニシズムである。

 

よくよく考えてみれば、恥というものは、

その時かいた恥だけが恥であるから、後からかく必要はない。

そうはいっても、そのときかいた恥は何時までたっても

恥かしいということがよくある。

(特に、異性関係の場合が指摘されよう)

そんな時、私は思い切って他の者に開陳してみる。

他の者は笑う、大いに笑う。

私も最初は困惑しつつ、笑う。そして次第に相手に増して大いに笑う。

後に私はそれが、笑うべきものであったことに気付き、はっとする。

なぜなら恥は、本来滑稽の一つの形式なのだからである。

であれば、それを大いに活用しようではないか。

 

己の恥を笑えることができれば、恥の軽視に繋がる。

私は恥の後悔という苦痛から、それだけ救われる。

かといって、その場における恥の情念を一切棄ててしまうことはできない。

もちろん、私が言いたいのは「恥知らず」になることでもない。

飽くまでも「恥の経験」に対する軽視である。

恥を畏れつつ、恥を軽んずるという態度。

それは慎重さ(あるいは弱気)と大胆さ(あるいは無神経)

という相反する気質を要求する。

「恥を畏れるな、しかし恥はなるべくかくな」

とは、一見困難な命題であるが、己の恥を笑うことを心がければ、

世間での実践には事欠かない。

しかし、ここでまた自らに力説すべきなのは、

己の恥に対する笑いは、自己卑下による嘲笑ととるべきでない、

ということである。

「恥(の経験)の軽視」を笑いによって実践しようという格率は、

一見奇妙であり、ナンセンスではあるが、

それ自体の滑稽さは、なんら否定的されるべきものではないのである。

なぜなら、私は己の恥を笑うことによって、

いささか自虐的ではあるが、全き快楽の形式を追求することになるからだ。その快楽は、何ら私の自尊心を傷つけるということもない。

むしろ、私はその滑稽さに感謝し、己の恥を笑いへと

導くことを決断した私の理性に、尊崇の念さえ抱こう。

 

かくして、私は己の恥はその場では恥じるべく大いに恥じ、

一旦恥を得たならば、後は笑うべくして、大いに笑おうではないか、

と思うに至った。

さすれば、かの哲人皇帝にあやかって、

世間で恥を経験したとしても、いずれそのようなものには何ら左右されず、

不動の精神でもって自己の糧にしてしまうことも可能ではないだろうか。

いや、そんなことを口に出して言うのは余りにも恥かしいから、

これ以上図に乗るは止しておこう。

口は災いの元、すなわち恥の元である。

 

とはいえ、人生とは旅であり「旅の恥は掻き捨て」であるとすれば、

畢竟、「人生の恥は掻き捨て」なのである。

 


(「自背録」は、読んで字の如く、「自らに背く」ことを 
 コンセプトにしてます。不定期掲載の予定)