私的教養論(1)−或元文学部堕落生之戯言−

以下の文章は、2006年10月3日に書いたものです。

つまりは6年前、私が文学部1年生の時。

最近考えていたことと大筋では変わらないことにちょっと驚きました。

人間は何時まで経っても、根っこは変わりそうにありません(笑

続編を書きたいなあ…テストが終わったらですが。。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  大学は生活に充分生き生きと働きかけないといって

  人々は不平を言う。

  しかし、それは大学に関係したことではなく、

  学問の取り扱い方全体に関係することである。

 

           (ゲーテ『格言と反省』)

 

 

「大学が面白くない」という台詞は入学してから聞き飽きました。

(「大学は面白い」という台詞も同じ位聞き飽きました)

 

私もそう思うときがなかったといえば嘘になるでしょう。

私の場合は大学に失望、落胆していたというよりも、

「まあ、大学ってそんなもの」というシニカルな態度を

入学前から取っていたので、それほどそのことに辟易はしてません。

理想と現実のギャップは、たとえ虚勢であっても、

「想定内」だと思っておいた方が、何かと精神的なダメージは抑えられるもので、また回復も早いと勝手に信じております(笑

ゲーテが生きていた200年以上前から、「大学は面白くなかった」わけです。

 

それは、何故か。

 

ゲーテの言うところを勝手に解釈すると、

生活=実社会と大学≒学問の乖離、ということになるでしょう。

まあ、考えてみれば至極当然であって、

大学はもともと実社会から離れた見地から学問をするところ、

アカデミック(学究的)な場、という理念からつくられたものです。

 

プラトンがアテネにアカデメイアを開いたのに端を発していて、

今でも大学でリベラルアーツ≒人文系一般教養が重視されるのも、

そのゆえんに与っているわけです。

実社会とはある程度隔絶しているのが、大学の長所であり、

欠点だという指摘があります。

理系に関して言えば、商業的価値があまり見込めない、つまり

「カネにならない」研究にカネと時間を費やして勤しめる場

としての「大学の良さ」があります。

 

例えば、理論物理学などの基礎研究。

門外漢ですが、ニュートリノとかカオス理論とかひも理論とか…

そういう物理や化学の基礎研究は自然科学の根幹を成すものであって、

学(エピステーメー)が真理(アレセイア)を追究するという、

まさに「学問のための学問」と言って良いかもしれません。

いや、こう言ってしまうのは語弊があって、

本当は「今は役に立たない学問、研究」が、

後々に物凄い影響を及ぼすことだってあります。

最初は世界で数人しか理解できなかったという相対性理論が、

今では身近な電子回路、人工衛星で応用されているという事実もあります。

そういえば、ノーベル物理学賞小柴昌俊氏も、

基礎研究の重要性を訴えていました。

詳しくはないですが、わが国の科学技術振興予算は極めて低く、

中でも実利には結びつかない基礎研究への投資はシブチン状態だとか…

応用研究ばかり重視していては真の「科学技術立国」たる

ことができないのは目に見えています。

最近は産学官協同研究というものがお盛んで、

予算も企業からふんだんに支給されている研究も多いですね。

例えば医工学の分野であったり、ナノテクの分野であったり…

まあ、お金を出してもらって研究できるのは、

研究環境としては申し分ないでしょう。

何をもっても高度で競争性の高い分野には予算もそれなりに必要ですからね。

大学も企業もどっちにとっても相乗効果は期待できるわけです。

 

しかし、そうは言ってもこれにはあまり宜しくない面があって、

要するには「大学の自主性」が必然的に侵されるということです。

企業が絡んでくるとどうしても「儲けになる研究、短期的に成果が見込まれる」が優先されて、

そうでない部分は不採算で切り捨てられてしまう。

とにかく論文を出すのが至上命題となり、

どんどん競争することばかりが重視されてしまう。

(この状況を”Publish or Perish“というようです)

つまるところ、優れた研究や優秀な研究者をめぐって、

市場=マーケットが形成されます。

 

それで問題が出てくるとすれば、例えば倫理の問題。

具体的には、世間を騒がせている論文の捏造とか、

もっと深刻なのは、技術の応用についての善悪の価値判断の問題。

実際近代科学の歴史を見ると、科学は常に軍事技術への応用と

背中合わせの関係だったのは、結構有名だと思います。

ロボットも、スペースシャトルも、インターネットも軍事技術に由来しています。

ロボットなんかは、実際もうアメリカではサイボーグ兵士の

研究がかなり進んでいるといるとか… 再生医療も米軍関連病院では研究や臨床応用が盛んだと聞いています。

情報技術も来るべき「情報戦争」に備えてそちらの研究も盛んなようです。

(臓器移植とか脳死とかはまあ倫理の話としては割りと有名なので割愛)

 

またすこし別の話をします。

 

この前某全国紙でかの有名な青色発光ダイオードの発明者中村修二氏が、

自身の「教育論」を何やら語っていました。

氏によると「日本の教育は受験偏重で、若い柔軟な知性に

役に立たない知識ばかり詰め込んでいる。

正直私は受験で必要だった世界史の暗記が苦痛でたまらなかった。

大学でも役に立たない教養の授業が未だに行われている。

日本の大学は学部生に勉強させないで、院で高いレベルを要求しているが、

それでは欧米の水準に追いつくことでは不可能だ。

向こうの大学生は学部生の間からガンガン勉強させられるので、

もうそこで差がついてしまっているのだ」

 

うる覚えですが、多分こんな感じだったと思います。

まあ、中村氏の意見には半分は賛成です。

むこうのインテリ大学生は、文系も理系も勉強量が半端ないので、

遊んだり、バイトしたりもままならない。

ですから、「日本の大学生は楽しすぎ、遊びすぎ」という批判は

甘んじて受け入れざるを得ない。

しかも、それは大学教育自体への批判としてそのまま適用されます。

私は文系で、しかも文学部の人間なのであまり大口叩くのはなんですが、

大学での勉強がそれほどしんどいものとは正直感じません。

(それはもちろん「大学が要求する」という枕詞が入っての話ですが)

まあ理系の人の方が絶対しんどいのは事実ですがね…

 

閑話休題。

 

あの中村氏の発言に私が全て同意しかねるのは、そこじゃなくて、

大学での教養教育(一般教養)や、受験勉強のこと。

大学の教養教育(いわゆるパンキョ-)に詰まらなさ、

面白なさを感じている人は多いと思います。

私もその一人であります。

しかし、それは「一般教養が要らない」と思っているんじゃなくて、

「なんでこんなに教えるのが下手くそなんだろう」ということです。

(まあ中には非常に上手い教官もいて、まあそれは「当たり」

 なんでしょうが、私はどうも「ハズレ」ばかりなのでw)

 

中村氏はどうも「大学教育は専門だけガンガン押し込めればいいじゃん」

 

と言いたげですが、私はそうは思いません。

一般教養は「それなりに」価値があると思います。

これを読んでいる理系の人の中に、

「世界史やら地理やら倫理やら語学なんて大学に来てまで勉強したくない!」

と思っている人があるやもしれません。

人文社会系の「教養」など基礎研究以上に「無駄」であり、

それこそ「役に立たない」代物で、なんでわざわざ、

そんなものを(受験勉強はともかくとして)大学で勉強せなあかんねん!!

大学に入ってすぐに一般教養に放り込まれて、

もうここで「大学の面白なさ」を一つを味わってしまう。

(俺私はそんなことないよ!パンキョーが楽しくて仕方がないよ!という方、

 申し訳ないですが捨象させて下さいw)

 

そもそも「一般教養」なんて何で必要とされるの?

「視野を広げるため」とか「他の知と交際してそれに触れるため」とか、

大層抽象的なお題目が一般教養にはかかっていますが、

詰まるところの議論がないわけで、そこが私は不満です。

だから、中村氏の意見のほうが大いに「合理的」に見えてしまう。

 

でも、腑に落ちないなあ…

 

回りくどい話になってしまいましたが、

先に述べた理系の応用研究への批判にどうやら戻らざるを得ないようですw

理系、自然科学の学問はもう既にかなり細分化されてしまったが故に、

研究者、技術者はひとつの分野に心血を注ぐのに手一杯で、

他の分野との融合を目指したり、 文系の仕事にまで手を出せる人はなかなか少ないと思います。

 

これは時代の趨勢だから仕方がない。

 

でも、研究者、技術者も人であり、自分の仕事に対して、

それが社会との関わりをどのように持つものであるか、

あるいは自分が社会の中でどういう文脈に位置づけられるか、

そういうことを考えていかなければ、自らの研究、

ひいては自らの存在に意義を見出すことは出来ないわけです。

科学者はロボットじゃありませんから。

 

そこで必要されるのは専門知識ではない、例えば人としてのあり方や

 

社会のなりたちに思いを馳せてみる姿勢、態度。

これを自分で身に付けることを可能にしてくれるのが、

まさしく「教養」ではないでしょうか。

文学や歴史学や哲学や経済学が直接そこに作用してくれるわけではありません。

それから何を得るか自分で考える力を与えてくれるものが、

「教養」だと思います。

 

理系の人が教養を学ぶ意義も、そこから導出できるかと思います。

まあ、私が理系の人に望むことは、たとえ専門の鬼になっても、

常に周りと己を省みる視点を持って貰いたいということですね。

(あれれ、一気に抽象的な表現になっちゃったw)

 

さて、話を最初に戻します。

生活と学問の乖離の話でした。(…ですよね?)

生活と学問がなぜ乖離しているかは大学のあり方自体が原因でした。

私がここで問題としたのは主に理系の話だったのですが、

言いたかったのは、生活の知と学問の知が食い違い、ギャップを

少しでも埋めてくれる可能性のものとして、

「教養」が挙げられるんじゃないかということです。

しかし「教養」と一口にいってもいろいろですし、

常に「教養」は革新されてくるものです。

今の大学の一般教養課程は、お世辞にもそれに柔軟に対応しているとは言いがたいです。

 

そこのとこはまた別の機会に議論しましょう。

(どうももう十分長すぎてきましたからね、いつものごとく…)

 

「教養論」はもう少し自分の中に固まったものができてから書こうと思います。

では最後に、同じくゲーテの格言で締めます。

 

    学問は何よりも、われわれが天性自然から

    受けるところの驚きをいくらか軽くしてくれるという点で役に立つ。

    それからまた、不断に高められて来た生活に、害あるものを退け、

    益あるものを導入するための新しい技能に目を覚ます点で役に立つ。

                       (ゲーテ『格言と反省』)