自背録(7)-私的友情論(改)-

悩みを全く抱えていない、究極的な楽観主義者などいるだろうか。

誰もが煩わされる生老病死の苦は言うに及ばず、

他者から見ればどんなに些細な、取るに足らないこと

(異性にもてないとか、社交的でないとか、朝起きれないとか、

 身長がもう少しあればとか、楽器が上達しないとか…) でも

人間は、否応なくそれに絶えず一生悩まされつづけるものである。

また苦悩という情念から、また後悔や怨恨、憎悪という情念も派生する。

(もっとも、絶望という情念がその極北に位置する)

一度そうした情念に囚われると、理性的な思考も全く減退してしまう。

理性的に苦悩に対処しようする試みは、たいていの場合、

無意味に終わり、深みにはまればことごとく灰燼に帰してしまう。

それゆえ、悩みは生じた矢先に意志して忌避できるものではない。

現実的な解決策として真っ先に示される処方箋は、

「時間が解決してくれる」という妥協である。

この、自然がもたらしてくれる万能薬以上に効き目のある何かを、

彼に与えられる者が果たして存在するだろうか。

 

しかしまた、こうした懊悩は、皮肉なことに彼自身が

実際一番望んでいたのではないか、と懐疑してしまう場合が少なくない。

何となれば、彼は人生あるいは、自己の中に不条理とか矛盾とか葛藤とかを、わざわざ進んで見出そうとするからだ。

それを肴に延々と怨嗟の声を上げては、隣人を憎み、世間を憎み、

挙句の果てに己を憎み、その運命を呪う。

(「運命」という言葉は、彼が苦境にある時好んで使いたがる)

そうして、行き場のない呻きを生涯叫び続け、

ひとたび不満が解消されれば、事足れりと判断し、

後はけろりと居直って、惰眠を貪るだけである。

彼はそれの繰り返しに何ら倦むことはない。

まことにこれは、人間存在の不可解極まる事態の一つではないか。

しかしながら、少し見方を変えれば、

苦悩や煩悶が無いような生き方は、多分にというか当たり前に面白くない。

悩んで、悩んで、悩み抜いた挙句に人は立派に文明を築き上げ、

文化を彫琢してきたのである。

苦悩は人類の進歩の象徴であり、煩悶は人間精神の高邁さの発露なのである!!

(このことは、もはや歴史の仔細を検討せずともよいのではないか。

 この私の勝手な決め付け判断でも、多数の同意が得られるのではないか、

 と少々気色ばむことをお許しいただきたい)

だとすれば、だとすれば、である。

このご時世、悩んでいる人間を見て「情緒不安定」だの「病んでる」だの、

「考えすぎ」だのとあげつらう無粋な人間がいかに多いことか、

と声を大にして批判してもよいではないか。

そのような「健全思考な」御仁に対して私は声をもう一段大にして問いたい。

「では君は考えず、そして悩まずして人生を少なくとも

 『善く生きる』ことができると言えるのか」と。

 

人間は、己は世界に一個であるという自覚が生まれたその時から、

生命が潰えるまで、絶えざる存在不安に脅かされ、

常に自己の精神と生を賭した必死の対話を強いられるものである。

それは、場合によっては死をも直視するほどの激情に変わることもあろう。

(それが、また言い換えれば先ほど述べたところの絶望である)

そしてそのような仕方は恐らく人生の中で最も苦しい部類の経験であろう。

しかし、その経験こそは豊穣な、そして文字通り懸命な生涯を送る上で、

かなり必要不可欠なもの、―己の全存在をかけて、初めて等価に得られる、純粋に美しい、高邁な「わたし」の至高性―

に他ならないのである。

美しく、善き生き方、そして栄誉ある、高邁な死に方、

そのようなものに最高の価値を見出そうという決意した者は、

あらゆる受苦を覚悟せねばならない。

 

苦悩、懊悩、煩悩いよいよ深く、絶望に至った者、

言葉に言い表せぬ悲嘆をそれでも必死に紡ぎだそうする者、

溢れんばかりの涙でむせ返り、去った者をなお惜しむ者。

彼らに真に必要なのは慰めではない。

癒しでも、抱擁でもない。「時間」という名の甘言を持ち出して、

思考停止に陥れようとさせるなど論外である。

だとすれば、彼らのためにわたしがしてやれることは何か。

 

彼らは自分が絶対的に弱いと思っている。

己の弱さゆえに苦しんでいるのだと思っている。

そこでその苦しさから何とかして逃れたいと思うようになる。

だから、彼らは自分に救いの手を差し伸べてくれる人間を待望する。

そして、救いの手の主はほとんどの場合、

彼らにとって耳障りのよい褒めそやし、上辺だけの慰め、義理の励まし、

その他一切の彼らがそうすれば上機嫌になるあらゆる行為を、

彼らに無償で施してやる。

(なぜ、そんな事をするのか。 自称救世主は、

 決まって安直にも「彼らのためを思って」という常套句を持ち出す。

 なんたる慈愛!!そして何たる偽善!!)

しかし、思慮深いメシアの手なら、そうは考えまい。

なぜなら、そうした安直さこそが彼らを弱くさせるからである!

甘言を弄し、彼らに迎合することで、精神をより一層惰気に向かわせ、

完膚なきままに彼らを弱さそのものに引きずりこむのだ!!

束の間の、かりそめのの安心は、驚くほど絶望に変わりやすい。

不安は永遠に除去されない。

ところが暗愚な救いの手はその恐怖を巧妙に隠蔽してくれる。

だから救いの手に頼っているばかりいると、

その暖かく頑丈な、貝のような手をそっとこじ開け、

外界を見渡した瞬間に、 彼らは恐怖に戦き、

驚愕のあまり凍り付いてしまうのである。

そして、もう目が慣れたら慣れたで、

臆病にも体そのものは心地良い手の中に逆戻り。

相変わらず、彼らの悩みは全く解消されず、

いや以前にもまして恐ろしく進行しているのだが、

手の中で手と戯れている限りは、全くもって陽気で脳天気そのものである。

しかし、もう彼らは外界を覚めた目でしっかり見ようとしない。

かくして世に言う「傷つきやすい」人間の出来上がりである。

その時、彼らがかつてなかったほどに弱くなったことはない

といっても過言ではないだろう。

 

救いの手を差し出そうとする者はよく考えよ。

それが彼らにとって真に福音たるか考えよ。

彼らが真剣に悩んでいる状態とは、

まぎれもなく彼らが、全く頼りなげでは名あるが、

飽くまでも独立自尊の状態で 「強く」なっている過程にほかならない。

その過程を精確に看取できる者こそが、

真の友情を彼らとともに構築しうるはずである

彼らの他ならない「強さ」に目を向けてやろう。

必死の試みに耳を傾けてやろう。

彼らが己の弱きに流れようとしているなら叱咤してやろう。

実際、「救いの手」がそこに何らかの形で介入する

余地はほとんど残されていないのである。

まずは、悩んでいる人間をそのままの形で肯定してみる。

「情緒不安定」でも「病み」でもない、

彼らの全き強さを全力で受け止めるのである。

 

私は断言する。

真の友情とは、ここにおいて初めて成立の萌芽を見たのだと。