アマチュア主義者宣言。と、父をめぐる回想と決意

(以下の文章は約5年前、21歳の誕生日に書いたものです)

 

 

誕生日なのにのっけから重苦しい話ですが… 

21にもなって、何か方向性らしきものが掴めた気が全くしません。 
これは生活態度はさておき、最近の読書傾向に顕著かと思う次第。 
専門分野とは違う、文学や美学、史学、 
もっと離れて理系では数学基礎論や宇宙科学に目が行きがちです。 

今更あくがれるのもいかがなものか 
と思案しつつ、専門分野の勉強もするんですが、 
もはやテストを前にして手付かずな昨今の状況… 

いろいろ考えていたところ、 
適当に加盟していた「アマチュア主義」というコミュニティーにこんなことが書いてある。 




アマチュア主義者のためのコミュニティ。 

・衒学やファッション、虚栄のためではなく、ただ単に考え 
 抜くために学際的に学ぶ人。 
ジャーゴン・隠語・専門用語にできる限り頼らずに、他人 
 に理解してもらう意志のある言葉で発言・対話しようとす 
 る人 


アマチュア主義とはE.W.サイード著『知識人とは何か』 
に出てくる言葉で、 

1.利益や褒賞を動機付けとはせずに、愛好精神と抑え 
  がたい興味によってつき動かされる。 

2.特定の専門分野・専門職という制限から自由になって 
  観念や価値を追及する。境界や障害を乗り越えてさま 
  ざまなつながりをつける。 



これを読んで、ひどく腑に落ちたのを感じました。 

私はたとえ将来何かの専門に就いても、 
志向としては常にアマチュア主義者のままでいようと。 
そして、現在の不安的・流動的な状態では、 
アマチュア主義に徹するのが至極妥当だと。 


今日は史学系のある授業で臆面もなく偉そうなことを言いましたが、 
私には、専門を志すからには、どんな学問であれ、仕事であれ、 
明確な「問題意識」と「方法論」を自らで打ちたて、 
己に課さなければいけないという強い信念があります。 

学者であれビジネスマンであれ、あらゆる職業は、 
「それで生きていく」ためには、まずもってその専門に対するプライドが 
何かしらの形で根柢になければならないのでないか。 
一生涯ずっとその矜持の高さが不変であるとは言えないけれども、 
自らで選んだ道であれば、誰であれ持つべきことではないか。 
などと、柄にもなく高尚なことを考えてしまうのです。 

もちろん、世間・俗世の常で所帯をもち、しがらみができると、 
そのような理念は空疎なものになりがちで、 
金銭という「最後の綱」に寄りかかることでしか、 
己の労働の意義に対して活路を見出せないこともありましょう。 
子供心に仕事帰りにすっかり疲弊しきった 
父親の姿というものがそういうふうにしか見えなくもなか 
た、という経験が私にはあります。 
その時、未来永劫(永劫というのは飽くまで観念の話ですが)現実生活という皮相にからめ取られ、「義務」という名の妖怪に生き血を吸われ、何やら得体の知れない「大きな力」に 翻弄されている卑小な人間をそこに見ました。 
歯科医院院長という一事業主であり、世間体では良くしている彼が、 
明日をも見えない困窮に明け暮れる貧民に映りました 。
陳腐さを自覚しながらそれでも日々格闘する彼に対し、 
偶像崇拝に近いほどの尊崇の念を抱きましたが、 
それは同時に、あさましいほどの軽蔑の裏返しであり、 
また労働というものにたいして私が初めて 
抱いた観念がニヒリズムだったのも、彼に始原がありました。 

しかし、今や私はその姿を卑しく俗なものと退け、 
非難する気持ちはもはやありません。 
何も高邁な理念や精神が彼に見出せず、要求もできないがゆえに、諦念に至ったのではなく、それはただ単純な、 
極めて単純明快で(しかし理論の上ではどうのこうの言うのは困難ですが) 
私が彼の仕事場で目にしたことで、今私が現に感じつつあることです。 

この世間にありながら、もの言わずとも、 
労働の真価を問うまなざしを目の当たりにしたとき、 
そこに理念や精神を超えたものを、見たのです。 
そこには、「問題意識」や「方法論」を内在 、
いや、超越したものを見ました。 
そして私が感得していると、彼は全て分かったという顔で言いました。 


「これが、僕の仕事」 


後に彼と距離を置いた関係から、 
より近しい距離をもいとわないようになると 
(要するにそういう年頃だっただけですが) 
いろいろ喋るようになり、 
私は「問題意識」や「方法論」が彼は彼なりにあったという確信を得ました。 
彼もまた「人並み」な苦労をその半生において払ってきたわけではなく、 
この専門的職業を選択する際に、ただ祖父を受け継いだからなのではなく、 
やはり彼は彼なりに、決意の朝―それも日々不断の―があり、その所為が彼をして職業人たらしめたのです。 

たとい先祖代々受ついだ職業、これはしばしば前近代的といって批判されるものですが、 
彼らが一流たる所以は、専門家の専門家たる自負がそこにあり、 
またそこに「問題意識」や「方法論」なるものは先取りされているのではないか、 
などと、最近は酒場に出るために、 
なまじ人間の諸相をいい気になって訳知りをしてみたくなります。 

人は、選び取った道に対しては、その暗黙たる責務として 
多かれ少なかれ専門家たる意識を自然身に付けるものなのですね。 

しかし、それを意識化しないと気がすまなかった…
私は、容姿的にはさておきかなり「頭デッカチ」だと 
自己反省されて仕方がないものです。 
にも関わらず、どうしてそこまで信念に拘るというと、 
今「アマチュア主義」を頑として採用するならば、 
将来においては、これを「プロ主義」 
において自分なりに乗り越えねばならないからなんです。 
そのためにはアマチュア主義者でありながらも、 
「問題意識」と「方法論」をかなり念頭において模索せねばなりません。 
恥ずかしながら、父のような性格ではない私は、まず覚醒していかなければ、後先もたないからです(笑 


果たして、アマチュア主義者は、プロになれるのか。 
それともどっちつかずで、野垂れ死ぬのか。 


まあ、それほど根を詰めずに、しかしやるときはやる! 
という気楽かつ真剣な心持ちで21歳を始めたいと思います。 


今日も乱筆長文失礼いたしました。 
ここまで読んでくださった奇特な皆さん、ありがとう。

言語の終焉 -平凡な事実としての死を乗り越えるために-

(以下の文章は、5年前に大学のとある授業レポートとして提出したものです)

 

 

 

 

 

世界とは、起きていることすべてである。
 世界は事実の全体であり、ものの全体ではない。
 起きていること、すなわち事実とは諸事態の成立である。
                L.ウィトゲンシュタイン論理哲学論考



 死は取るに足らない平凡な事実である。斜塔から投げられたリンゴが地面に向かって落下するのと同じように、平凡な事実にすぎない。斜塔から投げられたすべてのリンゴが地面に向かって落下するように、この世界に生まれ落ちたすべての生命もまた死に向かって絶えざる活動を続ける。死とはただそれだけのことであって、それ以上のあるいはそれ以下の評価を与えるべきことではない。わたし達--生命にとって、その活動停止は予め約束されたものであり、不死の(死ぬことのない)生命をそれでもまだ生命と呼ぶことは適わないだろう。わたし達は--生まれ、そして幾許かの時をこの地上で過ごし、そして死ぬ--という生と死の過程において初めて生命と呼ばれ、人間と呼ばれる。
 ところが、こういった事実としての死とは別に、実に多様な死が長い間語られてきたし、現在も語られ続けている。と言うより、むしろ、わたし達の死についての概念の大半は、事実としての死についてのものではなくて、死にまつまる諸事情についてのもので占められているのだ。

 

あらゆる人間の活動分野の根底には、死にまつわる何らかの態度が密接に関っているが、哲学上においても死は重要な課題で、プラトンは「哲学は死の練習-『パイドン』」と書いている。死がわたし達にとってただ単純に不可避なものであるというだけなら、死は文字通り平凡な事実に留まったであろう。何も不可避なものは死ばかりではなく、例えば空腹感(食物への欲求)などもわたし達にとって不可避なものだからだ。しかし、わたし達は空腹の経験を死のように深刻はとらえない。わたし達はそれが不可避であるという事実からは空腹を忌み嫌うよう真似をしない。むしろ、美食という概念にも顕著なように、その空腹のより有効な解決法は好んで研究対象にさえされている。また、犬や猫を飼育した経験の持主ならば容易に理解できるように、犬や猫でさえも飼料を選り好むという嗜好を持っている。

 

では、不可避なものとしては同値である死と空腹の差異はどの点においてであろうか。 それは、死は、空腹が食物の摂取によって満たされるようには満たされることがない、ということである。直喩的に言えば、死は死を与えられることによってしか満たされないが、死に満たされた状態とはすなわち死そのものの状態であり、わたし達生命体とってそれは決して満たされたとは言えない状態なのである。つまり死は、死を与えられることによってのみ満たされるのだが、わたし達はそのような死の満ちた状態においてなお、生きていることは適わない。これは厳密には、わたし達の誰もが死を経験できない、ということを如実にあらわしている。

 

不可避であると同時に非経験的--いや、むしろ非経験的であるにもかかわらず不可避であるがゆえに、死は平凡な事実に留まろうとしない。未知のもの、未体験のものはわたし達のイマージュに働きかける。それが死であれ、謎であるものは存在しないが、死のように最初からそれが非経験的であると解かっているもの(失われた遠い文明の勃興の物語のように、存在する事実はあったものの、その物証が永遠に失われていて確証を得ることが不可能なもの)の輪郭の不在をイマージュによって補正することはわたし達にとってともすればオートマティックな機能でさえある。もっと言えば、イマージュや推理によってわたし達はその失われた物語の諸断片を接合し、それらしい輪郭を与えることを一種の「趣味」とさえする。それが特定の文明の勃興の物語であれば、それに興味を抱くのは限られた小数の人間だけであろう。しかし、死が時間と空間を超えて万人に去来する不可避な現象であるだけに、死は、誰もが一度はイマージュしなければならない課題なのである。ここに、失われた文明の物語とは比類にならない、万人への対象として現前する死の物語の重さがある。(前述の、プラトンの「哲学は死の練習である」という言葉が際立ってくるのはこのような場面においてである。すなわち、哲学とは誰もが必ず直面しなければならない死という問題に何度でも自ら立ち向かっていくという営為によって「死の練習」たるのである)。

 

ところで、死には食に見られるような嗜好(死を満たして解消するための選択肢)は見られない。なぜなら、それは死が非経験的現象であるからで、その個人の理解外にあるものをまたアレンジすることもできないからだ。こういった理由から、死は、わたし達に裸形の姿のまま迫ってくる。(パウロは『コリント人への手紙』で「最後に滅ぼされる敵は死である」と明言している。キリスト教の世界観によれば、最後の審判の日に死者は蘇り、神の裁きを受けるとされている。他方、仏典の一つである『修業道地経』によれば、人間は輪廻を繰り返すことが説かれ、生前の行為によって六道に生まれるとされている)。またこれは死後の世界である地獄の描写にも詳しく触れているこのように、伝統的な宗教はその一つの機能として、死自体ではなく、死の背に来世を据え、それについて好んで物語ってきた。こういった宗教観によれば、生前の行為が来世に直接的な影響を与えるため、現世での生き方を拘束するというポリティカルな側面も含んでいた。すなわち、依然として様々な外的脅威にさらされているような時代において、さらに死が無意味であるとされれば(それゆえ死後も存在しない)、現世でどのような悪事をはたらいても何ら咎められることはない(いずれにしても死ぬのであり、その死が何ら意味を持たないのであれば、存命中に何をしても問題にされない)という無秩序な状態を引き起こしやすい、ということである。この混乱は宗教家だけでなく、為政者にとっても大きな課題であり、こうした混乱の一つの回避策として古代国家による任意の宗教の保護や迫害が行なわれてきた側面は無視できない。

 

幾多の困難を経て一大国家プロジェクトとしての国教に定められるまでに勢力を拡大した大宗教はそれを庇護した帝国の終焉すら乗り越え、現代まで脈々と語り継がれている。そして、それが語り継がれるということは、その物語がそれだけ広く読まれ続けることを意味している。(キリスト教の聖典である聖書は世界最大のベストセラーとされ、1815年~1998年の間に約3880億冊という膨大な部数が印刷・書写(日本語版ギネスブック1999年度版より)されている。これを数千年にも及ぶ一大文化の壮大な叙事詩と呼ぶことはもはや揺るぎようのないことであろう)。

さて、文化と呼ばれるまでにわたし達のアイデンティティに深く根差した物語はわたし達の死にどのような示唆を与えるのだろうか。

 

文化とは非常に独自なもの、特別なもの、固有なものであって、それがどれだけ近代的な国家であっても、その国家がそのように成立した経緯は、文化を蔑ろにして語ることはできない(あるいは、文化なくして国家像や人物像は語りえないとも言える)。言うなれば、その文化を理解しなければ、その国や(その国に生活する)人を理解したと言うことはできないのだ。その点で文化は、わたし達やひいては国家の身体と言えるだろう。もちろん、わたし達はわたし達を生む両親を選べないように、生まれてくる時代や地域を選ぶこともできない。そういう実際の存在を本質に先立たせた存在体であるわたし達にとって、ア・プリオリ(先験的)に与えられている文化という要素は非常に大きな意味を持たざるをえない。この「私」が、現在と同様の両親から日本において出生したとしても、誕生直後に里子に出され、まったく違うそれぞれの地域に生活していたら、それこそわたしの人生はわたしというア・プリオリな要素(≒遺伝子)は変わらないにもかかわらず大きく変容していたであろう(わたしが日本語を操るか英語を操るかで、わたしの気質は変わってくる。わたしが和食を主食とするか洋食を主食とするかで、わたしの体型もまた異なってくるように)。

 

文化の特性は生活様式(上記に挙げたような各言語間の語感の違い、和食と洋食における箸-fork,椀-bowl,低座卓-tableの違い)に簡単に見ることができるが、文化はわたし達が自己を認識するのに必要不可欠な言語にも深く根差している。(同言語間にも方言というニュアンスの差異が存在するが、ここではそれらは日本語の標準語に対する関西弁であったり東北弁であったりという具合に、標準ルール内のローカル・ルールと扱っている。要するに、日本語であれば日本語、英語であれば英語に共通する文化的背景があるといった視座に立って考察している)。

 

多くの言葉には語源があるが、ことに表意文字という漢字を含んだ中国語や日本語にはそれが顕著だと言える。日本人は漢字の一定のルールを覚えると、それが未知の漢字であってもその大まかな意味を推測することができる(部首による識別など)。この、直接知らない対象を推測できるという部分はイマージュに強く関ってくる。つまり、わたし達は頻繁に語られる死という言葉や、死の置かれた文脈から死をイマージュできるのだ。

また、生まれて間もないわたし達は多くの言葉の定義を具体的には知らされないまま(というより、具体的な言語能力を有していないのだから、知らされることがまず不可能なのだが)、イマージュに満ちた言語の海に投げ出されまる。生まれたてのわたし達の周囲には、わたし達がそれを何らかの有意味な発話であるのかを認識するしないにかかわらず、およそあらゆる発話が溢れている。例えば、聴覚(耳)は目のように閉じることができないので、わたし達は無数の音を自動的に受け取っており、幼児が最初に習得(発話)する言葉が「お母さん」や「お父さん」であったとして、それを発話した幼児はにもかかわらず「お母さん」という単語を正しく理解して発話しているわけではない。幼児は自分の母親には「お母さん」と呼びかけられるだろうが、他人の母親には「(他人の)お母さん」と呼びかけることはできない。なぜなら、その幼児が発話している「お母さん」という単語は形式的に正しい日本語としての「お母さん(母親の意)」ではなく、単純な名指しであり、「お母さんという名前を持った対象を指示する単語(名前)」として扱われているにすぎないからである。このように、子供達は両親やその身近な人間が喋っている言葉を反復することから言語の習得を始める。すべての両親が辞書を手に「お母さん」という言葉を筆頭にすべての言葉の理解を子供に与えることなどないし、また最初からそのような方法で子供に言葉を教授することは不可能である。わたし達人間は音から意へ、耳から口へという順序で言語を習得していく。

 

 言語習得の過程で、わたし達が辞書という定義集(意味)に手を伸ばせる段階になる頃には、言語観の大まかな雛形は既に形成されてしまっている。そして、この言語観の雛形を形作るものが、例えばわたし達の一番身近にあってわたし達に言語を反復させる両親と両親のその生活--文化なのである。こういった文化的背景がわたし達の死の観念の形成を大きく左右していることはもはや疑う余地はない。

 

 そこで、わたし達人間を定義する上で欠かせない言語という機能が、わたし達にとってだけ死の現出の仕方を変える。というのは、ある意味では言語化という作用を伴わなければ、わたし達は、あるものに対しての知覚内容を正確には知ることが適わないからである。知ろうとする事態がさらに複雑であれば、それは困難と言うよりおよそ不可能となるだろう。複雑な言語を持たない諸動物は自分が死ぬという未来における確実な事態を知ることも、知らされることもない。ゆえに、諸動物にとって死は平凡な事実としてしか現れざるをえないのである。  

 

確かに、諸動物にとっても身近な存在の死は不可解な出来事のはずである。例えば、犬や猫はわたし達人間の個別性も認識できるということがある。飼い主やその家族の内の誰かが長期間不在となると口にこそ出しはしないが、その不在を感じ取ってはいるようである。しかし、犬や猫はどのような事由で飼い主やその家族が不在なのかを考えることは決してしない。飼い主が旅先から帰っても、一度死んでしまった後に帰ってきても同じことなのである。わたし達は、わたし達の大切な誰かが旅行に出掛け、今日それが帰ってくるのであればその帰りを楽しみに待つだろう。しかし、旅に出たその旅が、死出の旅であれば、わたし達はその帰りを「待つ」ことは絶対にない。ところが、犬や猫は待つのであれば、死者が帰ってくるのを待ち続けるだろう(例えば忠犬ハチ公のように‥)。犬や猫は飼い主やその家族に何が不思議なことが起こったとは感じているかもしれない。しかし、その感じ方はそれ以上先に進んで死に及ぶとことはないのだ。

ゆえに、わたし達人間にとって、死の現れ方はその様相を個々で異なりうるのである。地球上に、人間以外で、非常に独自で、特別で、固な死の観念を持つ生物は存在しない。人間だけがこのような死を語り継ぐのは、「語り継ぐ」という形容から明らかなように、実際に文字によって物語を受け継いでいくからある。広範な意味での教育を考えてみると、諸動物の教育は一世代間伝達が限度である。しかし、わたし達は記述がされている限り、時間と空間を超えてあらゆるわたし達の祖先からの伝達を受け取ること(コミュニケーション)ができる。だから、人間はその歴史のすべての死の観念を担ってさえいるといっても過言ではないのだ。

 

人間にとってだけ死の現出のされ方が異なるのには、生物学的機能として人間と諸動物間の脳容量差という事情もある。わたし達は自分自身がいつか必ず死ぬことを知っている(あるいは、すべての人間は自分がいつか必ず死ぬことを、知能的に知ることができる)。俗に、猫や象は死に場所を選ぶなどと言われるが、それは自身の体力の低下を悟った猫や象がより安全な場所に身を隠すための行動(その多くが隠れるべき場所に隠れたまま死んでしまうため、その死は人目に留まらない)というのが恐らくことの真相であって、実際に死に場所を選好しているということは決してない。だが、人間は自らの死期をかなり明確に悟ることができる。地域ごとの平均寿命値もその指標になりえるし、現在の日本では通常重篤な疾病が診断されずにそのまま死に至るということも皆無に等しい(自殺を含む事故死を除いた突発的な死の減少)。このように、わたし達は自分がいつか必ず死ぬことを知ることができ、それが向こう約120年以内の確実な事実であり、猫や俗のように俗に言われるのではなく本物の意味で生きる場所も死ぬ場所も、真に自ら選ぶことができるのである。

 

こうしたわたし達の人間としての能力は、文化とはまた切り離された死の重みをわたし達に与える。自分がいつか必ず死なねばならないことを知りつつ生きることと、そのことをまったく関知せずに生きることでは、その生への態度が大きく変わってくるからである。生の延長線上に死があることを知らずに生きる諸動物はいわば盲目の走者であって、諸動物のこういった盲目的な生き方は、死への一直線な邁進に見える。諸動物は死を恐れないからそれに向かって邁進するのではなく、その生の果てに死があることを(あるいは死それ自体を)知らないがために生の果てに向かって先へ先へと急ぐのである。一方、人間はこの生という名のレースの果てに否応なく待っている死を見つけ、一直線にそこに突き進んでいくのを躊躇せざるをえない。そこで、盲目的な生にブレーキをかけて、自分が走らされている生というレースの全体像や仕組みを探ろうとする。しかし、そういった哲学的懐疑の最中にもわたし達は自分の立ち止まったつもりでいる土壌がにもかかわらず死へと滑り落ちつつあることに気付かないわけにはいかないだろう。その限られた生の時間を、ベッドの上で終始寝たきりで通してもわたし達が死ぬことに変わりはない。わたし達が足踏みしようとも、逆走しようとも、それよりも速いスピードで生はわたし達を死に向かわせる。要するに、死を知らなかったわたし達は動く歩道を更に走ってまでその果て(死)を目指していたと言える。わたし達に可能であったこと、してきたことはと言えば、死の不可能な破壊ではなく、より長くレースを続けるために道を舗装し、継ぎ足すことでしかなかった。これによって、わたし達は死を免れないまでも、前時代に比べて長く生きられる外的環境を獲得してきたのである。

 

しかし、長寿となった人生はわたし達に新たな弊害をもたらした。すなわち、人生が苦しみを内包し、場合によっては苦しみの連続である場合、レースの引き延ばしはそのまま苦しみの引き延ばしになることになった。尊厳死安楽死というタームが一般的に語られつつある現状を顧みれば、こういった問題が杞憂としてではなく現前しつつある問題であることが理解可能であろう。ここで一つ重大なことが明確になってくる。それは、わたし達は時に生よりも死を選ぶ場合があり、それが最高機関(法)で承認される場合さえある、ということである。わたし達は死を苦しみそのものと考えがちだが、死そのものは苦しみを伴わない。わたし達が苦しいのは、死んでいる時ではなく、まさに死につつあるその時でしかない。死につつあるその時、というのは、その生が死に脅かされている瞬間の継起を指す。つまり、わたし達に内在する生への意志が死に抗おうとするためにわたし達は苦しいのである。これは諸動物についても同様であり、何らかの怪我を負った個体がその怪我を苦しむのは怪我がその個体の生きる意志を妨害するからである。怪我を負った個体がそれでも何処かへ向かおうとするのは、生の意志が生きさせようとするからだ。しかし、わたし達は必ずしも諸動物と同様の行動を取るわけではない。わたし達には怪我による余りある苦痛を解消するために自ら死を選ぶようなケースさえあるし、実際にそのような選択の可能性は常に存在する。この地球上において自ら死を選ぶ個体は人間だけだが、これは、本来動物にはあってはならない行動である。それがどんな種類の自殺であれ、それは諸生命に内在する生への意志(盲目的な欲求)の否定になるからだ。

 

生命が自身への盲目的な欲求を持つことは自明でなければならない。だからこそ、人間以外の諸動物はあのように生から死へと至るベルトコンベアーの端から端を迷うこともなく駆け抜けて行けるのである。例えば、任意の季節に咲き誇る花が自身に内在する盲目的な生への欲求に疑問を抱き、開花することをやめてしまったらどうだろうか。 同じように、地球上のあらゆる存在体がオートマティクに哲学的懐疑を挟み込んでしまったら、それは適切に機能しなくなるに違いない。この意味では、死に対して独特の観念を持った時点で、人類という種はそれ自体で支障を来した種と言えるのではないだろうか。生への盲目的な欲求が一種の有機的なプログラムを働かせる命令系統で、それによってある一定の環境が再生産されているのだとしたら、人間はそのプログラムから逸脱した存在体である。そして、この逸脱が問題になるのは、個体の生成と消滅が一定の環境の再生産に欠かせない要素であるとしたら、この枠組みの中では個体の死はその意味を十分に説明することができる、という点においてである。この枠組みを期せずして脱してしまったわたし達は、多くの場合わたし達の死の意味を失ってしまった。にもかかわらず、死の性質そのものは損なわれずにあるので、わたし達は死に対してそれが絶対的に不可避でありしかも無意味である、というネガティブな解釈を与えるようになる。また、このように生命の枠組みから片足を外してしまった人間が、前述の宗教的解決(死後の想定)を発明せずにはいられなかったのも肯ける「理屈」である。宗教的解決は死を生の終点とするのではなく、死後という更なる延長を置き、それを肉体上の一通過点に過ぎないと看破することによって死を取り除こうとしたのだ。

 

実世界において、わたし達に与えられた指標の多くはわたし達を死から遠ざけるものばかりであり、個人的経験に基づけば、わたしは義務的な教育過程から、人間であればこの私も例外なく死ぬ、という教えを授かったことはない。また、通常の親権者もその子に、その子が確実に死ぬことを教育したりしないだろう。わたし達が教授してきた近代的教育とは、未来という将来の持続性にもとづいてされているプログラムである。確かに、わたし達にとって快適な未来を想像することは愉快なことであるが、多くの場合、わたし達はその想像されたとおりの未来を生きることは、ほとんどない。少なくとも、わたし達は約10年後のこの同じ世界に、現在と同様にかくしゃくとして存在してはいない。そういった極めて有限で短命な存在体であるわたし達個々人にとって、わたし達の死後の世界の様相に何の興味が沸くのだろうか。

 

わたし達に義務的にされる教育には、この死の視点がきれいに抜け落ちているから、わたし達は死を社会の外部から見つけてくる。例えば、わたし達は、それが犬であれ猫であれ、魚であれ昆虫であれ、生き物を飼育すれば(大抵そういった生き物はわたし達よりもかなり早く死んでしまう)、わたし達はそこに「最初の死」を見つける。あるいは祖父母といった年の離れた肉親の死や、不慮の事故や病による近親者の死を見るだろう。そういった「事実として死」が現前した時、わたし達の培ってきた、生にとって有益なあらゆる知識体系は、名指し難い衝撃の前に無効を宣告される。死者がわたし達にとって代替不能な存在であればあるほど、その死はわたし達にとって納得できないもの、合理的に説明のつけられないものとしての強度が増す。今そこに現前した死に、わたし達が軽々とイマージュした未来は、もろとも奪い去られてしまう。わたし達は社会に生きる上で様々なものを獲得して生きていくわけだが、わたし達は生の過程で得たものを何一つとし死に持ち込むことができない。文字通り、わたし達は裸で生まれ、裸で死んでいかざるをえないのだ。

 

死に直面する時、わたし達はわたし達人間の生ではなく、諸動物の盲目的な生こそその生の理に適っているのではないか、と思わずにはいられない。明らかにわたし達は生を遠回りしているようだが、生の苦痛を自ら増しているように見えるからである。わたし達は、死を、ただ事実としての死と認識することによって死を明確にするのではなく、およそあらゆる観念を付与することによって死の観念を肥大化させ、より恐ろしいものに仕立ててしまっているのではないのだろうか。

 

日常言語にすら、悠久の物語が染み込んでいる以上、それをただ死と呼ぶことによってさえわたし達は死の存在しない側面を語ってしまう。しかし、何事かを認識する際に言語化が必要不可欠である以上、わたし達は可能な限り事実に即した、あるいは利益のある物語を編むべきであろうし、そうすることでしか私たちはもはや生きるのが困難な世界に立ち向かえない。かつて宗教が解決するより他なかった超自然的とされる現象にも科学的な説明がされるようになったにもかかわらず、わたし達は今でも「嘘つきは閻魔に舌を抜かれる」などという喩えをときに用いたりするが、それは実際にその閻魔の棲む場所が信じられているからではなく、方便としてだけ用いているからにすぎない。現代は死に限らずあらゆる現象の蒙昧が破られつつある時代である。わたし達の時代にとってこれまでの死の物語は時代のモードに即さない、書き換えられるべき物語なのである。だからといってこれを完全に否定して打ち捨ててしまうのではなく、わたし達はわたし達の死に見合った、わたし達の死という物語を築いていくべきなのだ。繰り返すように、死は取るに足らない平凡な事実なのだから。

私的教養論(1)−或元文学部堕落生之戯言−

以下の文章は、2006年10月3日に書いたものです。

つまりは6年前、私が文学部1年生の時。

最近考えていたことと大筋では変わらないことにちょっと驚きました。

人間は何時まで経っても、根っこは変わりそうにありません(笑

続編を書きたいなあ…テストが終わったらですが。。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  大学は生活に充分生き生きと働きかけないといって

  人々は不平を言う。

  しかし、それは大学に関係したことではなく、

  学問の取り扱い方全体に関係することである。

 

           (ゲーテ『格言と反省』)

 

 

「大学が面白くない」という台詞は入学してから聞き飽きました。

(「大学は面白い」という台詞も同じ位聞き飽きました)

 

私もそう思うときがなかったといえば嘘になるでしょう。

私の場合は大学に失望、落胆していたというよりも、

「まあ、大学ってそんなもの」というシニカルな態度を

入学前から取っていたので、それほどそのことに辟易はしてません。

理想と現実のギャップは、たとえ虚勢であっても、

「想定内」だと思っておいた方が、何かと精神的なダメージは抑えられるもので、また回復も早いと勝手に信じております(笑

ゲーテが生きていた200年以上前から、「大学は面白くなかった」わけです。

 

それは、何故か。

 

ゲーテの言うところを勝手に解釈すると、

生活=実社会と大学≒学問の乖離、ということになるでしょう。

まあ、考えてみれば至極当然であって、

大学はもともと実社会から離れた見地から学問をするところ、

アカデミック(学究的)な場、という理念からつくられたものです。

 

プラトンがアテネにアカデメイアを開いたのに端を発していて、

今でも大学でリベラルアーツ≒人文系一般教養が重視されるのも、

そのゆえんに与っているわけです。

実社会とはある程度隔絶しているのが、大学の長所であり、

欠点だという指摘があります。

理系に関して言えば、商業的価値があまり見込めない、つまり

「カネにならない」研究にカネと時間を費やして勤しめる場

としての「大学の良さ」があります。

 

例えば、理論物理学などの基礎研究。

門外漢ですが、ニュートリノとかカオス理論とかひも理論とか…

そういう物理や化学の基礎研究は自然科学の根幹を成すものであって、

学(エピステーメー)が真理(アレセイア)を追究するという、

まさに「学問のための学問」と言って良いかもしれません。

いや、こう言ってしまうのは語弊があって、

本当は「今は役に立たない学問、研究」が、

後々に物凄い影響を及ぼすことだってあります。

最初は世界で数人しか理解できなかったという相対性理論が、

今では身近な電子回路、人工衛星で応用されているという事実もあります。

そういえば、ノーベル物理学賞小柴昌俊氏も、

基礎研究の重要性を訴えていました。

詳しくはないですが、わが国の科学技術振興予算は極めて低く、

中でも実利には結びつかない基礎研究への投資はシブチン状態だとか…

応用研究ばかり重視していては真の「科学技術立国」たる

ことができないのは目に見えています。

最近は産学官協同研究というものがお盛んで、

予算も企業からふんだんに支給されている研究も多いですね。

例えば医工学の分野であったり、ナノテクの分野であったり…

まあ、お金を出してもらって研究できるのは、

研究環境としては申し分ないでしょう。

何をもっても高度で競争性の高い分野には予算もそれなりに必要ですからね。

大学も企業もどっちにとっても相乗効果は期待できるわけです。

 

しかし、そうは言ってもこれにはあまり宜しくない面があって、

要するには「大学の自主性」が必然的に侵されるということです。

企業が絡んでくるとどうしても「儲けになる研究、短期的に成果が見込まれる」が優先されて、

そうでない部分は不採算で切り捨てられてしまう。

とにかく論文を出すのが至上命題となり、

どんどん競争することばかりが重視されてしまう。

(この状況を”Publish or Perish“というようです)

つまるところ、優れた研究や優秀な研究者をめぐって、

市場=マーケットが形成されます。

 

それで問題が出てくるとすれば、例えば倫理の問題。

具体的には、世間を騒がせている論文の捏造とか、

もっと深刻なのは、技術の応用についての善悪の価値判断の問題。

実際近代科学の歴史を見ると、科学は常に軍事技術への応用と

背中合わせの関係だったのは、結構有名だと思います。

ロボットも、スペースシャトルも、インターネットも軍事技術に由来しています。

ロボットなんかは、実際もうアメリカではサイボーグ兵士の

研究がかなり進んでいるといるとか… 再生医療も米軍関連病院では研究や臨床応用が盛んだと聞いています。

情報技術も来るべき「情報戦争」に備えてそちらの研究も盛んなようです。

(臓器移植とか脳死とかはまあ倫理の話としては割りと有名なので割愛)

 

またすこし別の話をします。

 

この前某全国紙でかの有名な青色発光ダイオードの発明者中村修二氏が、

自身の「教育論」を何やら語っていました。

氏によると「日本の教育は受験偏重で、若い柔軟な知性に

役に立たない知識ばかり詰め込んでいる。

正直私は受験で必要だった世界史の暗記が苦痛でたまらなかった。

大学でも役に立たない教養の授業が未だに行われている。

日本の大学は学部生に勉強させないで、院で高いレベルを要求しているが、

それでは欧米の水準に追いつくことでは不可能だ。

向こうの大学生は学部生の間からガンガン勉強させられるので、

もうそこで差がついてしまっているのだ」

 

うる覚えですが、多分こんな感じだったと思います。

まあ、中村氏の意見には半分は賛成です。

むこうのインテリ大学生は、文系も理系も勉強量が半端ないので、

遊んだり、バイトしたりもままならない。

ですから、「日本の大学生は楽しすぎ、遊びすぎ」という批判は

甘んじて受け入れざるを得ない。

しかも、それは大学教育自体への批判としてそのまま適用されます。

私は文系で、しかも文学部の人間なのであまり大口叩くのはなんですが、

大学での勉強がそれほどしんどいものとは正直感じません。

(それはもちろん「大学が要求する」という枕詞が入っての話ですが)

まあ理系の人の方が絶対しんどいのは事実ですがね…

 

閑話休題。

 

あの中村氏の発言に私が全て同意しかねるのは、そこじゃなくて、

大学での教養教育(一般教養)や、受験勉強のこと。

大学の教養教育(いわゆるパンキョ-)に詰まらなさ、

面白なさを感じている人は多いと思います。

私もその一人であります。

しかし、それは「一般教養が要らない」と思っているんじゃなくて、

「なんでこんなに教えるのが下手くそなんだろう」ということです。

(まあ中には非常に上手い教官もいて、まあそれは「当たり」

 なんでしょうが、私はどうも「ハズレ」ばかりなのでw)

 

中村氏はどうも「大学教育は専門だけガンガン押し込めればいいじゃん」

 

と言いたげですが、私はそうは思いません。

一般教養は「それなりに」価値があると思います。

これを読んでいる理系の人の中に、

「世界史やら地理やら倫理やら語学なんて大学に来てまで勉強したくない!」

と思っている人があるやもしれません。

人文社会系の「教養」など基礎研究以上に「無駄」であり、

それこそ「役に立たない」代物で、なんでわざわざ、

そんなものを(受験勉強はともかくとして)大学で勉強せなあかんねん!!

大学に入ってすぐに一般教養に放り込まれて、

もうここで「大学の面白なさ」を一つを味わってしまう。

(俺私はそんなことないよ!パンキョーが楽しくて仕方がないよ!という方、

 申し訳ないですが捨象させて下さいw)

 

そもそも「一般教養」なんて何で必要とされるの?

「視野を広げるため」とか「他の知と交際してそれに触れるため」とか、

大層抽象的なお題目が一般教養にはかかっていますが、

詰まるところの議論がないわけで、そこが私は不満です。

だから、中村氏の意見のほうが大いに「合理的」に見えてしまう。

 

でも、腑に落ちないなあ…

 

回りくどい話になってしまいましたが、

先に述べた理系の応用研究への批判にどうやら戻らざるを得ないようですw

理系、自然科学の学問はもう既にかなり細分化されてしまったが故に、

研究者、技術者はひとつの分野に心血を注ぐのに手一杯で、

他の分野との融合を目指したり、 文系の仕事にまで手を出せる人はなかなか少ないと思います。

 

これは時代の趨勢だから仕方がない。

 

でも、研究者、技術者も人であり、自分の仕事に対して、

それが社会との関わりをどのように持つものであるか、

あるいは自分が社会の中でどういう文脈に位置づけられるか、

そういうことを考えていかなければ、自らの研究、

ひいては自らの存在に意義を見出すことは出来ないわけです。

科学者はロボットじゃありませんから。

 

そこで必要されるのは専門知識ではない、例えば人としてのあり方や

 

社会のなりたちに思いを馳せてみる姿勢、態度。

これを自分で身に付けることを可能にしてくれるのが、

まさしく「教養」ではないでしょうか。

文学や歴史学や哲学や経済学が直接そこに作用してくれるわけではありません。

それから何を得るか自分で考える力を与えてくれるものが、

「教養」だと思います。

 

理系の人が教養を学ぶ意義も、そこから導出できるかと思います。

まあ、私が理系の人に望むことは、たとえ専門の鬼になっても、

常に周りと己を省みる視点を持って貰いたいということですね。

(あれれ、一気に抽象的な表現になっちゃったw)

 

さて、話を最初に戻します。

生活と学問の乖離の話でした。(…ですよね?)

生活と学問がなぜ乖離しているかは大学のあり方自体が原因でした。

私がここで問題としたのは主に理系の話だったのですが、

言いたかったのは、生活の知と学問の知が食い違い、ギャップを

少しでも埋めてくれる可能性のものとして、

「教養」が挙げられるんじゃないかということです。

しかし「教養」と一口にいってもいろいろですし、

常に「教養」は革新されてくるものです。

今の大学の一般教養課程は、お世辞にもそれに柔軟に対応しているとは言いがたいです。

 

そこのとこはまた別の機会に議論しましょう。

(どうももう十分長すぎてきましたからね、いつものごとく…)

 

「教養論」はもう少し自分の中に固まったものができてから書こうと思います。

では最後に、同じくゲーテの格言で締めます。

 

    学問は何よりも、われわれが天性自然から

    受けるところの驚きをいくらか軽くしてくれるという点で役に立つ。

    それからまた、不断に高められて来た生活に、害あるものを退け、

    益あるものを導入するための新しい技能に目を覚ます点で役に立つ。

                       (ゲーテ『格言と反省』)

 

自背録(7)-私的友情論(改)-

悩みを全く抱えていない、究極的な楽観主義者などいるだろうか。

誰もが煩わされる生老病死の苦は言うに及ばず、

他者から見ればどんなに些細な、取るに足らないこと

(異性にもてないとか、社交的でないとか、朝起きれないとか、

 身長がもう少しあればとか、楽器が上達しないとか…) でも

人間は、否応なくそれに絶えず一生悩まされつづけるものである。

また苦悩という情念から、また後悔や怨恨、憎悪という情念も派生する。

(もっとも、絶望という情念がその極北に位置する)

一度そうした情念に囚われると、理性的な思考も全く減退してしまう。

理性的に苦悩に対処しようする試みは、たいていの場合、

無意味に終わり、深みにはまればことごとく灰燼に帰してしまう。

それゆえ、悩みは生じた矢先に意志して忌避できるものではない。

現実的な解決策として真っ先に示される処方箋は、

「時間が解決してくれる」という妥協である。

この、自然がもたらしてくれる万能薬以上に効き目のある何かを、

彼に与えられる者が果たして存在するだろうか。

 

しかしまた、こうした懊悩は、皮肉なことに彼自身が

実際一番望んでいたのではないか、と懐疑してしまう場合が少なくない。

何となれば、彼は人生あるいは、自己の中に不条理とか矛盾とか葛藤とかを、わざわざ進んで見出そうとするからだ。

それを肴に延々と怨嗟の声を上げては、隣人を憎み、世間を憎み、

挙句の果てに己を憎み、その運命を呪う。

(「運命」という言葉は、彼が苦境にある時好んで使いたがる)

そうして、行き場のない呻きを生涯叫び続け、

ひとたび不満が解消されれば、事足れりと判断し、

後はけろりと居直って、惰眠を貪るだけである。

彼はそれの繰り返しに何ら倦むことはない。

まことにこれは、人間存在の不可解極まる事態の一つではないか。

しかしながら、少し見方を変えれば、

苦悩や煩悶が無いような生き方は、多分にというか当たり前に面白くない。

悩んで、悩んで、悩み抜いた挙句に人は立派に文明を築き上げ、

文化を彫琢してきたのである。

苦悩は人類の進歩の象徴であり、煩悶は人間精神の高邁さの発露なのである!!

(このことは、もはや歴史の仔細を検討せずともよいのではないか。

 この私の勝手な決め付け判断でも、多数の同意が得られるのではないか、

 と少々気色ばむことをお許しいただきたい)

だとすれば、だとすれば、である。

このご時世、悩んでいる人間を見て「情緒不安定」だの「病んでる」だの、

「考えすぎ」だのとあげつらう無粋な人間がいかに多いことか、

と声を大にして批判してもよいではないか。

そのような「健全思考な」御仁に対して私は声をもう一段大にして問いたい。

「では君は考えず、そして悩まずして人生を少なくとも

 『善く生きる』ことができると言えるのか」と。

 

人間は、己は世界に一個であるという自覚が生まれたその時から、

生命が潰えるまで、絶えざる存在不安に脅かされ、

常に自己の精神と生を賭した必死の対話を強いられるものである。

それは、場合によっては死をも直視するほどの激情に変わることもあろう。

(それが、また言い換えれば先ほど述べたところの絶望である)

そしてそのような仕方は恐らく人生の中で最も苦しい部類の経験であろう。

しかし、その経験こそは豊穣な、そして文字通り懸命な生涯を送る上で、

かなり必要不可欠なもの、―己の全存在をかけて、初めて等価に得られる、純粋に美しい、高邁な「わたし」の至高性―

に他ならないのである。

美しく、善き生き方、そして栄誉ある、高邁な死に方、

そのようなものに最高の価値を見出そうという決意した者は、

あらゆる受苦を覚悟せねばならない。

 

苦悩、懊悩、煩悩いよいよ深く、絶望に至った者、

言葉に言い表せぬ悲嘆をそれでも必死に紡ぎだそうする者、

溢れんばかりの涙でむせ返り、去った者をなお惜しむ者。

彼らに真に必要なのは慰めではない。

癒しでも、抱擁でもない。「時間」という名の甘言を持ち出して、

思考停止に陥れようとさせるなど論外である。

だとすれば、彼らのためにわたしがしてやれることは何か。

 

彼らは自分が絶対的に弱いと思っている。

己の弱さゆえに苦しんでいるのだと思っている。

そこでその苦しさから何とかして逃れたいと思うようになる。

だから、彼らは自分に救いの手を差し伸べてくれる人間を待望する。

そして、救いの手の主はほとんどの場合、

彼らにとって耳障りのよい褒めそやし、上辺だけの慰め、義理の励まし、

その他一切の彼らがそうすれば上機嫌になるあらゆる行為を、

彼らに無償で施してやる。

(なぜ、そんな事をするのか。 自称救世主は、

 決まって安直にも「彼らのためを思って」という常套句を持ち出す。

 なんたる慈愛!!そして何たる偽善!!)

しかし、思慮深いメシアの手なら、そうは考えまい。

なぜなら、そうした安直さこそが彼らを弱くさせるからである!

甘言を弄し、彼らに迎合することで、精神をより一層惰気に向かわせ、

完膚なきままに彼らを弱さそのものに引きずりこむのだ!!

束の間の、かりそめのの安心は、驚くほど絶望に変わりやすい。

不安は永遠に除去されない。

ところが暗愚な救いの手はその恐怖を巧妙に隠蔽してくれる。

だから救いの手に頼っているばかりいると、

その暖かく頑丈な、貝のような手をそっとこじ開け、

外界を見渡した瞬間に、 彼らは恐怖に戦き、

驚愕のあまり凍り付いてしまうのである。

そして、もう目が慣れたら慣れたで、

臆病にも体そのものは心地良い手の中に逆戻り。

相変わらず、彼らの悩みは全く解消されず、

いや以前にもまして恐ろしく進行しているのだが、

手の中で手と戯れている限りは、全くもって陽気で脳天気そのものである。

しかし、もう彼らは外界を覚めた目でしっかり見ようとしない。

かくして世に言う「傷つきやすい」人間の出来上がりである。

その時、彼らがかつてなかったほどに弱くなったことはない

といっても過言ではないだろう。

 

救いの手を差し出そうとする者はよく考えよ。

それが彼らにとって真に福音たるか考えよ。

彼らが真剣に悩んでいる状態とは、

まぎれもなく彼らが、全く頼りなげでは名あるが、

飽くまでも独立自尊の状態で 「強く」なっている過程にほかならない。

その過程を精確に看取できる者こそが、

真の友情を彼らとともに構築しうるはずである

彼らの他ならない「強さ」に目を向けてやろう。

必死の試みに耳を傾けてやろう。

彼らが己の弱きに流れようとしているなら叱咤してやろう。

実際、「救いの手」がそこに何らかの形で介入する

余地はほとんど残されていないのである。

まずは、悩んでいる人間をそのままの形で肯定してみる。

「情緒不安定」でも「病み」でもない、

彼らの全き強さを全力で受け止めるのである。

 

私は断言する。

真の友情とは、ここにおいて初めて成立の萌芽を見たのだと。

 

地域医療学事始 −北海道の地域医療と、旭川医科大学の地域医療教育への提言−

 

 「北海道の地域医療は崩壊している」という議論が以前にも増してかまびすしい。しかもその議論は、往々にして「地域医療のために北海道に残る医師を育成せよ」という主張と結びついている。単純に地域医療に従事する医師を増やせば、問題は解決するであろうか。「地域医療崩壊」という現象は、医師数の確保あるいは病院の増加によって食い止められるのであろうか。われわれ医学生が、将来一般の地域住民の方々から期待される役割とは、どんなものになるのであろうか。また、将来医師として地域で医療活動を行うとすれば、われわれはどのようなビジョンを描く必要があるのか本報告は、「地域医療学」講義の受講前に抱いていた、以上のような疑念について現時点での私的見解を述べたものである。私的見解にすぎないものの、本報告が旭川医科大学の医学教育、ひいては北海道の地域医療再生の一助になれば幸いである。

 

1.         北海道の地域医療の現在

 

医療崩壊の本質は病院崩壊である」という指摘は、本講義中に何度も繰り返された言葉である。地域医療の最前線を担う自治体の中核病院などで働く勤務医が激減し、収益の悪化により破綻や閉鎖、経営統合を余儀なくされている病院が顕著に増加している。例えば2006年に経営破綻した夕張市立総合病院は記憶に新しいところである。こうした医療崩壊=病院崩壊の原因は以下のような事実が指摘されている。まず、2004年度に導入された新医師臨床研修制度により、大学医局に所属する医師が大幅に減少したことである。それまでは、地域の自治体病院へは、大学病院の医局から医師が派遣されてくることによって地域医療の人的資源が維持されていた。しかし、症例数をこなすことで専門性を磨きたい新人医師にとって、待遇が民間病院より低く症例数も限られると思われた自治体病院への派遣は、リスクと捉えられるようになった。新制度開始当初は、2年間の臨床研修後に新人医師は大学医局に復帰すると多くの医療関係者は考えていたが、ふたを開けてみると大部分は研修先の民間市中病院に残留し、大学医局には戻らなかった。これにより、地域病院へ医師を順次派遣していた医局は人的資源が枯渇し、派遣先の自治体病院の医師たちは疲弊して、やむを得ず退職する選択肢を取るようになった。こうした傾向は特に地方部の大学において深刻であり、2006年度における臨床研修終了者帰学者は、北海道では前年度比56.7%減であった。

 その他に指摘される原因としては、過重労働と低い報酬、地方住民や行政とのコミュニケーション断絶、国民の権利意識向上と過剰要求(コンビニ受診など)、医事訴訟の増加などが挙げられている。夕張市立総合病院の事例では、こうした要因が複合した結果、現場では誰も危機意識を抱かないまま経営破綻を迎えてしまった。夕張市立総合病院では、2003年以降、常勤医師の内科医が6人から2006年には1人まで減少し、外科は2005年からは休止状態に追い込まれた。医師数の減少は入院や外来の患者数の減少に直結し、病院収益は悪化していった。医師不足は度重なる大学医局の変更と、その限界から引き揚げが直接の要因であったが、北海道平均・全国平均から見ても低い報酬や、社会的入院の増加によるモチベーションの低下によるところも大きい。また夕張市立病院ではマネジメント能力が職員に欠如しており、職場には閉塞感が漂っていたという経営分析がなされている。これらは本来病院を運営する自治体が解決すべき問題であるが、行政側はこうした現状を認識すらせず、問題を先送りし、「お役所仕事」に留まっていた。また、住民側も被害者であると同時に加害者という側面をもっていた。治療費の滞納や、タクシー代わりの救急車利用、コンビニ受診の増加は、現場の医師やコメディカルスタッフ、諸君の士気を低下させていた。このような様相は夕張市立病院だけに当てはまる問題ではなく、北海道の多くの自治体病院でも見られる「病理」である。

 北海道の1人あたり医療費は全国5位、老人医療費は2位であるが、病院数は2位、10万人当たり一般病床数は2位と、数字だけみるとコストパフォーマンスは芳しくない。また、自治体病院は100前後で、その多くは収益の悪化に苦しんでいる。2006年度以降も医師数の減少傾向は止まっていない。

 

2.         地域医療崩壊への処方箋−「村上スキーム」の検討

 

 夕張市立総合病院の破綻後に、地域医療の継続を担ったのは、元瀬棚町立国保診療所長の村上智彦医師が設立した新たに設立した医療法人財団「夕張希望の杜」であった。「夕張希望の杜」は指定管理者制度によって運営されており、これが運営する夕張医療センターが2007年度からオープンした。夕張医療センターは、村上医師の目指す「予防医学」と「在宅医療」が中心とした医療を提供するため、19床の有床診療所と40床の介護老人保健施設からなる。「村上スキーム」という言葉は、字義的には「村上智彦医師による、高齢化社会における地域医療・地域社会モデル構築枠組み」とされている(『村上スキーム−地域医療再生の方程式−』)。ここでは、村上医師の考える地域医療に対して考察を行いたい。先に挙げた対談集の中で村上医師は、地域医療崩壊を「地域で安全保障を担う医療機関が存続できなくなった状態」であると位置づけ、その主たる原因を「住民意識」であると述べている。本報告では、臨床研修制度などによる医師不足が問題であると述べてきたが、なぜ、「住民の意識」が問題になるのであろう。村上医師は、住民の医療サービスに対する要求を「ニーズ」と「ウォンツ」に分けて説明している。「ニーズ」とは、その地域社会で真に必要とされる医療福祉であり、例えば救急や、産科、老人介護などである。これらは地域が変われば、当然水準や様式は異なる。一方「ウォンツ」とは、住民個人レベルが求める高度医療や、専門的治療、あるいはコンビニ受診によるフリーアクセスなどを指す。村上医師は、医療側が住民のウォンツに過剰に応えすぎて、その収益を確保しようとしたために、本当のニーズを見失ったと見ている。モンスター化したウォンツ偏重の需要を供給側が満たそうとしたために、ニーズ全体に対して相対的に医師数が足りなくなったというというわけである。この大元の原因である住民意識を変えるために、村上医師は「最低限でいいから医者を大切にするとなぜ言えないのか、あなたたちがいくら言ってもこんな田舎に医者なんか来たくない」、「自分たちが地域医療を崩壊させたと自覚せよ」などと、ときに厳しい言葉を住民やマスコミに投げかける。

 本州での勤務歴も長い村上医師は、「北海道は全くの地域医療の後進地域」と言う。これはしばしば指摘されることだが、北海道は過去に開拓者精神に溢れた地域であったのに、戦後に政府が推進する公共事業を中心とした補助金行政によりそれが失われている。補助金や交付税を当てにした行政運営や企業活動は、前例に囚われ旧態依然のままであり、革新的なアイディアは生まれにくい。長野や新潟、岩手では介護保険の原案を生むような地域医療が生まれているが、北海道では遅れをとっているのである。私自身、旭川医科大学に入学した当初は、「北海道では、地域医療の最先端を学べる」という話を複数の大学当局の方から繰り返し聞かされたが、入学後に様々な地域医療に関する文献や実際の地域医療の現場を見ると、どうも首をひねらざるをえなかった。北海道発の地域医療崩壊現象は枚挙に暇がないが、北海道発の地域医療モデルは未だごくわずかである(その代表となるのが村上スキームであるが)。

 村上医師は、医療提供側が重要と供給のアンバランスがあるのを自覚せず、旧来通りの高度医療を行う専門医養成教育に特化してきた点を批判している。高齢社会で求められる医療はプライマリケアと予防医療であり、そこで必要とされる医師像は、大学病院で高度な専門医療を行う専門医ではない、村上医師の論理に従えば、現在の医師養成方針はウォンツに応えるためにミスマッチを起こしているということになる。ゼネラリストとしてのかかりつけ医とスペシャリストとしての専門医の棲み分けや連携がうまくいっていない現状は、旧弊的な医学教育に原因がある。専門医療中心の教育では、総合医や家庭医の養成は後回しにされがちである。日本で適切な応急処置ができる診断能力のある医師は20%前後であるとも指摘されているが、このような状況下では地域のニーズを満たす医師を確保することは難しいであろう。

 村上医師は「まちづくりとしての地域医療」を提唱しているが、理想としては自分自身がいなくても、「普通の先生で、楽しく、町づくりが体験できて、自分も得るものがあって、何年か仕事したら同じことやろうかな、と思ってくれるのがいい」と述べている。実際、村上医師の下には、彼の理念に共鳴した職員や医師、アドバイザー、コンサルタントたちがチームを組んでいる。「村上スキーム」は彼らの人的ネットワークによって支えられているし、維持されているのである。村上医師は、「医師は、医療及び保健指導を掌ることによって公衆衛生の向上及び増進に寄与し、もつて国民の健康な生活を確保するものとする」という医師法第一条を、地域医療の原点にするべきであるという。これは「医療は目的ではなくて手段である」という彼の信条とも通底する。医療は本来、市民が健康な生活を維持するための補助手段であるが、それが目的化することで医療費も増大し、ウォンツが肥大化していった。「自分達にとって必要な医療とは何か」を需要側と供給側が常に再定義していくことが、地域医療に求められているのではないだろうか

 

3.一兵卒として現場に立つ前に考えておきたいこと、言っておきたいこと

 

 私は北海道の地域医療が迷走している原因を、北海道全域を包括的にカバーする地域医療政策ビジョンの欠如にあると考える。北海道にはこれまで戦略的な医療政策研究拠点がこれまで存在しなかった(平成20年度に文科省によって採択された、戦略的大学連携支援事業「北海道の地域医療の新展開を目指した異分野大学院連携教育プログラムによる人材育成」には、北海道大学旭川医科大学は参加していない)。本講義で配布された資料によれば、「旭川医科大学が目指す地域医療の最前線で働く医師像」は「地域基幹中小規模病院で内科医として勤務する家庭医ではなく、入院管理ができる医師(基礎的総合的な臨床能力を持ちつつ内科を基盤とし、専門とする領域を持つすそ野が広い専門医のイメージ)」とある。理想とすべきは、「専門性を期待する地域に応え、高次医療機関の負担を軽減し、良好な連携を保てる、本当の意味での専門医」であるという。講義では、北海道の地域特性から考えれば、家庭医や総合医はどちらかというと否定的な印象を持って語られることが多かった。この点は「村上スキーム」とは相容れない部分が多い。専門性を持つことは確かに重要であるが、旭川医科大学が考える「地域で求められる医師像」は地域住民のウォンツにいまだ過大に応えようとはしていないだろうか。またさらに、「リサーチマインドを持ち臨床研究を地域でも行えること」も掲げられている。リサーチマインドを養成し、それを地域にフィードバックするためにも「大学全体で、地域医療を支えるという考え方」が重要であるという。果たして、これらは私たち旭川医科大学の学生にとって、目標とすべき妥当な医師像であろうか。

 正直な感想としては、旭川医科大学は、旧来のように大学医局に残って研鑽を積み、地域へと派遣される医師を求めていると映るのである。特別入試制度(地域枠、AO)により、入学者の約半数は将来的に北海道に残留して地域医療に従事することが期待されていると言ってよい。このような方針は、「医師数を一定以上確保できれば、地域医療崩壊を食い止められる」という安易な発想に基づいていると見なさざるを得ない(そもそも、行政やマスコミ、また大学が医師や看護師を「確保」と言う言葉を使って人的資源をモノ扱いするのは妥当でないとする見方もある。「確保」ではなく、「招聘」が妥当な表現であるという。『まちの病院がなくなる!?』)。もし、旭川医科大学が、崩壊しつつある地域医療の最前線で矢面に立たされるソルジャーを量産的に養成しようというのなら、私は大いに失望するだろう。旭川医科大学では、地域医療で働く具体的な医師像に触れる機会はあっても、具体的に「北海道の地域医療をどうしたいのか」というビジョンが見えてこないのである。大学の研究科も臨床研究や基礎研究の研究室はあっても、医療経済・経営や医療政策を研究し、それを医学教育に還元する機関や部署がない。将来地域で働く医師が活躍し、リーダーシップを発揮していくためには、個々の専門科の診断能力と総合的な診断能力に加え、マネジメント能力や、行政・市民への提言を行うプレゼンテーション能力も必要である。講義や、また別の機会で何人かの教員の方に、これらの資質や能力を育成する方針や具体策を質問したが、「現場にでてから学ぶことが一番」という言葉しか帰ってこなかったのは極めて残念である。臨床現場で学ぶことが一番の勉強になるのは言うまでもないが、そこで得られるノウハウやメソッドを共有し、医学教育に反映させるのが大学の仕事ではないだろうか。旭川医科大学が本気で地域医療に取り組むのであれば、こうした公共的政策的視点を医学教教育に通り入れるべきであろう。現在地域で求められる医師像は従来のように、モノ扱いされ、「立ち去り型サボタージュ」で疲弊していくソルジャーではない。リーダー(指導者)やコーディネイター(調整者)、アントレプレナー(起業家)といった個性的なタイプこそ求められないだろうか。また地域医療で必要とされる問題解決能力には、医学的な問題にとどまらず、社会的、政治的、経済的な領域にまたがっている問題を扱う俯瞰的な視野が求められる。旭川医科大学含め、現在の我が国の医学教育や入試制度が横並び、画一的な状況下にある限り、こうした能力を身に付ける医師は育ちにくいであろう。特色のあるカリキュラムを弾力的に運用するとともに、臨床留学や研究留学以外に公共政策大学院やMBA経営学修士)など異分野進学・留学を大学側が積極的に推奨するシステムも備えるべきであると考える。

 「小医は病を癒し、中医は人を癒し、大医は国を癒す」という中国古典の至言がある。地域医療で活躍する医師とは、「中医」と「大医」の中間の立場にあって「まちを癒す」存在になるだろうか。であれば、「まち」という大きな視点から「人」を診ることのできる医師に私はなりたいと思う。地域医療を志す人々がみな、村上医師のような能力を発揮することは難しいとしても、理想やビジョンをもち、「まちづくり」の一環として医療活動を行うことは可能なはずである。旭川医科大学での豊かな学びが、その志に寄与することを期待したい。

 

参考文献

  村上智彦『村上スキーム−地域医療再生の方程式−』エイチエス、2008

  伊関友伸『まちの病院がなくなる!?』 時事通信社2007

  真野俊樹『入門 医療政策』 中公新書2012

disablingからenablingへ −「企て、画す」という営みについて−

(以下の記事は20081110日の日記を編集したもの)

 

最近どうしてもしばし批判的になってしまうのですが、

企画者としても、参加者(学内学外での様々なイベントだけでなく、

お祭や行事、企業セミナーやインターンなども含め)としても、

 

「わかりやすかった、楽しかった、刺激になった、ためになった」

 

で始まり、それで終わらせてよいのか、という問題意識を抱いております。

もちろん、感性的にそういう要素がなければ人というものは、

集団的な営みに自ら参加したり、自ら作り上げたりしようとはなかなか考えないはずです。

企画者の立場からすれば、企画という営みが、

何らかの集合へのサーヴィスである以上、参加者を顧客と捉え、

マーケティング的手法を駆使して、できるだけニーズを満たしてやる、

という仕事は不可欠でしょう。

だから、企画者はそれだけ「目玉」を意識してサーヴィスしようとする。

コンサートにせよショーにせよ、ビジネスの世界では当たり前の話です。

 

一方で、参加者の方は、「こんなものがあったら行ってみたい」

という、「楽しく、刺激的で、ためになる」ようなものであれば、

積極的に参加しようとするでしょう。

例えば、有名人が来るとか何らかの特典が付随するだとか、

人生上の「成功」(収入やキャリア、能力、人脈など)に直結するとか。

目玉があれば飛びつきますし、それはそれで分りやすいぶん、

参加後の満足という「お土産」がついてくるのでしょう。

 

企画や催しというものが往々にして「自己満足」であるという

批判は、常々至るところから出されるものですが、

それはある程度「集団的行為」が成功(何をもって「成功」の基準とするかは措いておいて)するための必要条件だといえます。

(十分な条件、ではない?)

 

アンケート用紙に「満足しましたか?」という項目

がお約束で設置されており、それに参加者はYESと書き込むこと、

また企画者はそのYESの数と質(満足度の高さ)に腐心すること、

を考えれば、「自己満足」なのはすでに両者とも織り込み済みなわけです。

だから批判したい人は、批判すれば良いけど、企画当事者からすれば、

彼らは企画趣旨や対象から外れた「クレーマー」だという認識になる。

(もちろん、クレーマーが相対的にかなり多ければ、企画は失敗の烙印を押されますが)

 

逆に「不快だった」、「予想を裏切られた」、

「全く関心とずれていた」という答えが返ってくるとどうしようもないので、

それはなるべく避けたいし。両者ともそんなことは望んではいない。

それゆえ、企画者はどうしても迎合的にならざるを得ないし、

参加者はたとえ無料のイベントであっても、

時間というコストを払っているのだから容赦なくクレームをぶつけて、

ますます、自分たちの見たいもの、聞きたいもの、知りたいものだけを、

企画者に求めようとする。

 

 

問題意識を発見したり、価値創造を目指したりするような企画趣旨であっても、

構造的に、企画-参加(生産-消費)する営みである以上、両者が

もはや、享楽や娯楽的位置づけ、エンターテイメント化を志向するのは

サーヴィス産業としての宿命なのでしょうか。

 

だとしたら、余計なことやややこしいこと、複雑で先がみえずもどこかしこで、

アタマを悩ます必要もなく、最初から、

 

「わかりやすくて、楽しく、刺激的で、ためになる」

 

だけを考えていればそれでよいのでしょうか。

 

 

 

 

先日STS科学技術社会論)学会でのバイトで、

鷲田清一総長(当時)の講演を拝聴する機会がありました。

正直三度目なので、いつもの紋きりと思っていたら、

こんなことを仰っておりました。

 

「高度に専門的にサーヴィス化した社会では、

 ひとりひとりが実は無能力に陥る。

 というのは、プロフェッショナルは、その営みによって、

 大衆は一方的な情報の受け手となり、

 あらゆる日常的行為においてdisabling(出来なくする)からである」

 

この議論はイリイチという人の議論が元ネタなわけですが、

これはまあ、高度情報化社会では避けられないハナシだと。

 

過剰な情報に踊らされる「情報難民」は、受験生も

大学生新入生も就活生も同じですが、

過剰な情報を与えられると、人はやはり自分が何をしていいか分からなくなり、

本当に何をしたら満足できるのか、そのためにまた過剰な情報を求めたがり、

ますます主体的になりづらくなってくるわけです。

 

難しいハナシですが、まあ、ビデオやテレビばかり見て育った赤ちゃんが

どういう性格になるかを考えれば分りやすいかもしれません。

 

とりあえず、企画者にとしては、

単純に参加者を満足させて、disablingするようのではなく、

逆にいかにenablingできるようなものを目指して行きたいと、

個人的な信条としてこれからも持ち続けたいと思います。

とはいえ、常にenablingできるような企画は設計が難しい…

 

自分が参加者として企画に関わるときは、「どれだけenablingさせられたか」

を経験値として蓄積することが大切なのは言うまでもありません。

 

ワークショップや、集会、勉強会などなんでもよいので、

そこで得たenablingな体験を不断にインプットしていくこと。

インプットした内容を抽象化し、ストックしておくこと。

 

それが、次に自分が企画者として関わったときに、

参加者をenablingする一番の近道ではないかと思う次第です。

 

自背録(6) ―雑駁、雨、祇園祭―

夕方からの、折からの激しい雨。

 

5限の授業を欠席して、大阪から京都に戻り、 皮膚科での診察を終えると、

重苦しい曇天はいつのまにやら既に臨界点を突破していたようだ。

この時ほど、自転車という乗り物がこの上なく不便になるときはない。

でも、しょうがない。

 

そのままその、不便な乗り物を錦通りを押しながら通って、

新京極、寺町界隈をふらふらする。

いつも通りの、疎らで適度に猥雑な人並みが僕の神経をなだめる。

平日の18時過ぎという時間帯。木屋町の酒場に繰り出すにはまだ早い。

錦界隈はほぼ閉店し、勤め帰りの人間も多少通り過ぎた頃…

 

今はこれくらいで、丁度いいのだ。

これくらいが。

 

今年も祇園祭には行かなかった。

ひとりで行っても仕方がないが、

昔はひとりでも行きたかった。

ひとりで何十万という群集に飛び込みたかった。

押し合いへし合いの熱気に浮かされ、

じぶんも彼らの思考形式に乗っかり、

しかし一方で、行く川の流れに身を任せてたゆたうように、

その中でゆっくりととろけていくように、

ひとりを感じるのが、とても心地良かった。

 

密集の暑苦しさ、ぎこちなさ、身体の歪みという不機嫌はあっても、

時間を忘れていた、という思い出が後でやってくるのだから。

それでお十分釣りがやってくるのだから。

 

その満足は、このイベントを僕にとって何ものにも変え難いものにしていた。

似た経験は地元の節分祭や平安神宮での初詣でも得られたけれども、

祇園祭には及ばない。

 

一つ年をとると、その後でいつも祇園祭がやってくる。

だから誕生日が近づくと、そっちの方が気になって仕方がない。

 

とても、そわそわしてしまう。 わくわく、とか、ぞくぞくとかというよりもそわそわする。

鉾もあの囃子も観ると、感慨を一入催したけど、

やはり人、人…兎に角人を沢山見るとそわそわする。

家族で行っても、友人と行っても、連れ合いといってもそうだったように、

自然早足になる。早くあの中で揉まれたいと思う。

飛び込んでいって、熱気に浮かされたい。

 

 

だけど今は、今は全然そうならない。

全く悲観すべきかもしれないけど、

僕はもう群集にまみれても、いくら頑張ってもそうはなれない。

人込みは、口で言うほど今でも嫌いではないけど、

もはやその中では、どんな感情も色濃いものではなくなっている。

 

僕はそれに自分でも気付いて、はっとすることがよくある。

祇園の人だかりに興奮を覚える年頃でもないだろうがが、

なぜだか、集団の熱気、喧騒が、かえって高揚感を薄らいだものにしてしまう。

すぐさま集団から足を引きたくなるわけではないけれども、

集団を経験した後はいつも、うんと落ち着いてしまっている。

それはそれで、いくらか喜ぶべき性分であって、

普段疲れた時には利用することはあるけれども、

それにしてもその精神作用は全然よく分からない。

いったい、なぜだろう?

 

 

 

 

自己反省を加えたところで、

結局は至極単純な結論か、それとも

更なる迷宮しか見出せないなら、沈黙する方が無難だ。

どうせ祇園祭には行かずに、

後で考えた頭にわかったような 口は自分にきかせたくはない。

 

 

雨を呪う声が聞こえる。

祇園祭は、大抵一日程度こっぴどい雨にやられる。

昨日の雨もひどかった。

こんなにひどい雨は、今も昔も歓迎しない。

びしょ濡れでも熱気は冷めないけれども、勘弁して頂きたい。

 

ただ、祇園の雨は人通りを少しはまばらにさせる。

酷い雨が降ると、群衆は蜘蛛の子を散らしたように去ってしまう。

熱気と喧噪と高揚が入り交じった猥雑さが希釈され、非日常が日常へと戻っていく。

祭の終わりまではもう幾ばくもない。

 

僕は、その祭の幕引きを告げる雨がだんだん好きになり始めてきたのかもしれない…