若き日の信条

テストを終わったらブログを始めるつもりでいましたが、

まだ期間中にも関わらず始まってしまいました(苦笑

 

テストのためだけの勉強、実習・実験のためだけのレポートに追われて毎日をあくせく過ごしていると、「一体自分は何のために医学を学びにきたのか」、「これから一生かけて何をなすべきか」と自問自答することがよくあります。(今もちょっとそんな気分です)

そしてその葛藤はこれからもしばらく続くでしょう。

 

そんな時は、再受験時代にmixiに書いた日記を読み返すことにしています。

僕の原点であり、ターニングポイントであるからです。

 

今回ブログを始めるにあたり、

新しい記事を書く前にまずはここに、その初心を表明しておきます。

これが僕の原点であることを皆さんにも知って頂きたいし、自分でも再確認したいのです。

 

タイトルは、

「余は如何にして医学部再受験生となりし乎」

2011年03月23日に書かれたものです。

非常に冗長ではありますが、お時間の許す限り読んで頂ければと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

3月11日の午後3時前、丁度僕は早くも来年度の受験に向けての
勉強を塾でやっている最中でした。


センター試験と二次試験で何とか戦えるレヴェルには行けたものの、
蓋を開けてみれば芳しい結果は得られず、、、

かと言って落ち込んでいる暇があったら、との思いで
再受験生活の弐年目に決意を新たにしていた、
うららかな昼下がり。


そんな中、突如この京都でもゆっくりとした左右からの揺れが
襲ってくると、とても嫌な予感が起こりました…



その後の日本中の悲劇、騒乱、阿鼻叫喚の一部始終については、
僕が詳らかに書かなくても、皆さんにとってはもう十分でしょう。
しかし、これを機に僕自身改めて色々と思うところあったので、
それと合わせての近況報告をすることに相成りました。
(ひどく長文になりますので、面倒であればまあ適当に読み飛ばしてください)


前口上が長くなりましたが
皆さま、不肖橋本ご無沙汰しております。

大学を卒業して以来、定職につかず、
医師を目指して再受験生という生活をやっております。





僕の近況をご存知ない方は、驚かれたかもしれません。

「橋本はどうしたのか?」という
お問い合わせがたまに寄せられますが、
僕はこの通り、多分国家の御用になれば「住所特定無職」
という有難くない肩書きが得られる程度、
そして「健康で文化的な最低限度の生活」を送っていられる程度の暮らしをしております。


裏を返せば、周囲に甘えられるだけ甘え、己の潜在能力を過信し、
18、19の若者と机を並べても後塵を拝するしかない低等遊民でございます。
皆さんはすでに就職され、毎日の仕事を得、
日々社会のなかでの自己を確立しつつある方々が少なくないと思います。
受験生は、最終的には自分にだけ結果責任を問われる仕事ですから、
他者にに対しての契約的な責務はありません。
(もちろん、出資者に対する義務はありますが)
理不尽なサービスや、金銭負担に追われることもない。
そういった労働の肉体的精神的負担にに比べれば、
自己責任のみの勉強自体は気楽な部類です。
そして、どんなに難しい試験であっても、それは通過点でしかありません。

正直なところ、僕はみなさんの前では卑屈さを隠すことはできません。
「いい年をして何をやっているのか」というお叱りは甘んじてお受けしますし、
もはや自分に失うものはないのですから、弁解の余地はありません。

しかし、僕にはすべて失ったとしてもやりたいことがあり、
それをやるために、今の進路を取捨選択しました。
(昨年度は残念ながら力及ばず、という結果に終わりましたが、
 今年度も再挑戦する覚悟です)


今日は、僕がどうしてここに至ったのかを明らかにしたいと思います。
親しい皆さんには、口伝てで言い切れないこともあり、
また会話ではどうしても自分の意図せざる方向に流れることもあるので、
日記というかたちでモノローグにしたいと思います。




さていきなりですが、僕が医師という仕事を目指す根本的な契機は、
以前に書かせて頂いた、大ニ病末期のイタイ日記
「―必然的に死ぬために、あるいはそれでも哲学するために―」
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=354900918&owner_id=4554389
の中の事件に、ほとんどすべて凝縮されているといっても過言ではありません。
今思い返せば、僕が前の大学で哲学や倫理学を専攻しようと決めたのも、
そこに決定的な原因があったかと思います。

あの自死の現場を眺めて以来、
僕は、生と死の問題を考察することの可能性と不可能性について
度々自問自答してきました。


誰もが無力になるあの瞬間に立ち会ったとき、
ほとんどの人間の思考は停止するか後退します。
あるいは、「終わったこと」として処理し、合理化しようとします。
宗教でさえも(僕は仏教系の学校に通っていました)、共同体の住民の記憶を、
儀式によって整理しようとします。

人間という生き物は、どんなに悲しい出来事があったとしても、
記憶を整理し、美化し、そして忘れるということができる利口さを持っている。
逆にいえば、忘れることで己の心身を健全に守ることができる…


当時の僕にはそれが受け入れられず、「理由なき反抗」を内面において行いました。
(詳細は上の日記を参照)
思春期特有のナイーブさと厭世気分に浮かされていた当初は、
同級生の死を蔑ろにしてしまった現実世間に辟易し、文学や思想に傾倒を試みました。
あるいは、音楽や運動に求めた時期もありました。

難解な書物を読んでいるときの観念の世界への没入、
音楽をやっているときの調和する恍惚感、
スポーツで肉体を酷使したときの爽快感、それらはすべて「生」の世界において、
僕を充実させてくれました。


大学という場所は、多くの人にとって十分に青春を謳歌させてくれます。
そこを出て、社会に赴くと労働の喜びと苦しみが生の中心になるでしょう。
僕自身もそう考えて、就職活動においてはどこかしこがで、おのが生を
充実させる手段を見つけようとしました。
手段としての労働と目的としての労働は区別する必要などなく、
仕事において最大限の自己を証明する人々に憧れました。


あるいは、知識の探求を行う研究者という仕事も魅力的に思えました。
(大学に進学した当初は研究職を考えていました)
大学では、学問や知識の充実と創造が人間の生を豊かにしてくれるという確信を得ました。
学問を志す者は、関心分野においては「理系\文系」の枠など関わらず、
専門性においては人文科学・社会科学・自然科学の別なく追求しなければならない、
という姿勢も、多くの尊敬する大学人から学びました。
学問が社会に対して何がしかの貢献をしうるのか、という問いにも、
自分がアカデミズムという場所に少し足を踏み入れてみて、
初めて我が身をつままされました。



大学か、社会か。「あれか、これか」で己の進路を迫られる時期が来て、
僕はそのどちらとも距離をとらざるをえなくなりました。
しかし、どちらにせよ、僕は「理由なき反抗」から、
「理由なき順応」に軸足を進めていたのです。


三年生の春にある民間企業から内々定を頂く前後から、
再びあの問いが頭をもたげてきました。
今度は「理由なき反抗」ではなく、内なるCallingが、
これまでの生において最大限の声量を投げ掛けてきたのです。



「お前の根本的な課題は解決されたのか?」


「なぜ、死に立ち向かうことを忘れたのかか?」


「お前は、なぜあの時何もできなかったのか?
 そしてこれかも『向こう側』で生きるのか?」


「汝自身を知れ」という例の神託が、僕自身にも
これほどの重みを持って響いてきたことはありませんでした。

僕があの現場からこれまで目を背けられなかったのは、
己の無知と無力さへの絶望の裏返しでした。

哲学や倫理学、心理学は、確かに、生と死、
あるいは自らをも死に追いやるほどの人間の精神
の営みについて、無知のベールを解きほぐしてくれました。
僕は「臨床哲学」という分野に足を突っ込んでいたために、
この社会の現場(例えば、看護や介護、教育)において、
哲学を実践することが可能であること、
そして現場自体が哲学を要請していることを学び、
自らも微力ながらそうしたプロジェクトに関わりました。


けれども、僕は学問の世界を充実させる方向では、
無力な自分がより一層無力に思えました。
「現場」を持たない自分が臨床哲学にコミットすることにも違和感を覚えました。
他者と積極的な関わりをもつ「現場」をもってこそ、哲学的実践も可能ではないか?
他者の生と死の現場に立ち会うことを忘れて、机上の議論に固執して良いのか?







このようなことをあれこれ思案していると、
僕には、身近であって遠かった医師という職業が、
生涯を賭けて遂行すべき課題ではないかと気づかれました。
父や従兄弟達が我を離れて、床に臨む姿に自然と自らを重ねていました。





僕は高校進学時に親類の奨めによる医学や歯学の道を断っています。
職業と学問が予め一体化した高等教育を受ける意志がなかったからです。
このことは全く後悔していません。
むしろ、文科系の学問を専攻することを選んで良かったと思っています。
大学での学びに触れていなければ、今歩んでいる選択肢も恐らくなかったでしょう。


対決すべきは血縁ではなく、僕の意志であり信条であったのです。


家系のほとんどを医療系の職業に持つ者にとっては、
僕のような人間は非常に異端であり、
また僕自身も異端であることをこれ見よがしにしていました。
回り道をした以上、もはや異端であることを鼻にかけたり、
開き直る必要はなくなりました。


ここに至って、僕が敢えて「自由意思」を行使して、
医師に、それも出来れば身体科ではなく精神科を志望する理由があります。


死を覚悟せんとする人々、あるいは死を受けれさせるような社会の
「こちら側」に立って、ともに闘うこと、
「異常」と「正常」を区別化し(差別化)する世界を直視し、
矛盾に苦しみながらも問題提起を行うこと、
自死を選ばざるを得ない人間の葛藤を見つめ、
科学的・技術的な解決方法では救いきれない現場から逃げないこと…


自らの中に魂の痕跡として「根をもつこと」を求め、
僕はこの生まれ故郷の土地を遠く離れ、
医療現場の一兵卒に身を置きに行こうと思います。


医師という仕事がどれだけしんどいものか、
そもそも精神科医に自分が向いているのか、
頭でっかちな自分にはまだほとんど分かっていないのは承知です。
回り道をした上での熟慮もまだまだ足りないと思います。


今年度切磋琢磨しあった仲間には、将来国境なき医師団へ参加したいという人や、
プロの音楽家としての活動を両立させようとしている人もいました。
年齢は違ったものの年下の方々の刺激を受けて、
僕も気力だけはとても若返ったかと思います。
受験勉強自体は孤独ですが、学びという営みは先人の教えとの対話であり、
知的鍛錬の基礎をなすものです。
理科系の知識や思考技術も改めて習得し始めてみると、
これまでにない充実感があります。


今は向う見ずな一挑戦者ではありますが、
やがては医学の徒として、志を生涯を貫く心構えを磨く日々を送りたいと思います。


最後に、


僕は、これから後60余年を費やすべき事業の方針がこれでほぼ固まりました。
今年は残念ながらその第一歩を踏み出すことは叶いませんでしたが、
皆さんを前にこのような次第を以てご報告させて頂きます。

我ながらここまでの人生において良き友、そして良き師に恵まれたと思います。
200人を超えるマイミクの皆さんとは、
多かれ少なかれ現実世界においてのおつきあいがありました。
(ない人は、これからですね!)
皆さんとも暫くは少し疎遠になるかもしれませんが、
いずれ、またどこかでお会いできることを楽しみにしております。


大震災関連のニュースを見ていて、
またも自身の無力感や情けない境遇に嫌気がさしてくるのですが、
やはり自分が一番できることは、今勉学に勤しむ機会に感謝し、
それに精一杯報いることだと考えています。

大切なのは、
日々生を感謝し、死を忘れないこと(memento mori



それでは!