沈黙するとは別の仕方で、あるいは沈黙することの彼方へ

ようやくテストもひと段落着きました。

これから、ブログの方も本腰入れていきたいと思います。

 

「書く」という行為からしばらく遠ざかっていると、

自分の「スタイル」というものが見出せなくなります。

いま、書きたいことがあるのに、ことばの不在、自己の不在に苛まれます。

 

そんな時はどうするか?

 

…過去を思い出すしかないでしょう。

 

というわけで、過去の叙述の再検討を踏まえた上で書きました。

約一年前に書いた文章のお手直し。

 

 

 

 

 

 


鷲田清一『「聴く」ことの力』

「聴く」ことの力―臨床哲学試論

「聴く」ことの力―臨床哲学試論

を読み返していて、
ふと思い当たることが多々あったので、書いてみることにしました。

 

 

 

あるターミナル・ケア(終末期医療におけるケア)をめぐるアンケートについて。
(調査の対象集団は、医学生、看護学生、内科医、
 外科医、がん専門医、精神科医、看護師)



「わたしはもう、だめではないでしょうか?」



という末期ガン患者のことばにたいして、
あなたならどう答えますか、という問いです。
これに対して次のような5つの選択肢が立てられています。





(1)「そんなこと言わないで、もっと頑張りなさいよ」と励ます。

(2)「そんなこと心配しないでいいんですよ」と答える。

(3)「どうしてそんな気持になるの」と聞き返す。

(4)「これだけ痛みがあると、そんな気にもなるね」と同情を示す。

(5)「もうだめなんだ……と、そんな気がするんですね」と返す。







 

 

結果は、精神科医を除く医師と医学生のほとんどが(1)を、
看護師と看護学生の多くが(3)を、精神科医の多くが(5)を選んだ、といいます。
(中川米造『医療のクリニック』より)

単純なアンケートではありますが、これは実際その場で立たされていないと答えにくい、 とても難しい問題。
僕はどうだったか、いろいろ迷った挙げ句(5)に近いことばを「言うしかない」と思いました。

はたして、皆さんはどれを選ばれたでしょうか?
(5)は一見何の答えにもなっていないように見えますが、これは解答ではなく、

「患者のことばを確かにうけとめましたという応答」(中川米造)になっています。

<聴く>というのは、なにもしないで耳を傾けるという単に受動的な行為なのではない。
それは語る側からすれば、ことばを受けとめてもらったという、たしかな出来事である。
こうして、「患者は、口を開きはじめる。得体の知れない不安の実体が何なのか、聞き手の胸を借りながら捜し求める。
はっきりと表に出すことが出来れば、それで不安は解消できることが多いし、
もしそれができないとしても解決の手がかりは、はっきりつかめるものである」 『「聴く」ことの力』

 あらゆる対話の局面において答えないこと、あるいは黙っていることは、
ひどく難しいことだ、と僕は最近とみに思うのです。

応答(respose)することには、責任(responsibility)が伴うという議論があります。
誰かに語りかけられたら、返さなくてはならない。
挨拶は当然のことながら、街中で外国人に道を聞かれたときでも、メールが届いたときでも、
出来るだけ早く、丁寧にすることが求められます。
それは社会生活を送る上での常識であり、出来なければ礼儀のなってない
失礼な、愛想のないヤツとして白眼視されます。

顧客から相談されたら、問題解決に奔走しなければならない。
友達から遊びに誘われたら、断るか承諾しなければならない。
プライベートで悩みの相談をされら、アドバイスしなくてはならない。
Facebooktwitterでコメントやリプライをもらったら、それにお返ししなければならない…

他人と関わる日常所作のあらゆる場面で、具体的な「お返し」を迫られます。
それは自然と義務になっているので、意識を上らせてみるとかなりの数になっているでしょう。
試しに、「今日、一体わたしは何度『お返し』したのか?」
と問うてみると、びっくりしてしまうかもしれません。
でもふつうはそんなお返し(responce)は、責任(responsibility)として意識されないかと思います。
けれども、 ひとのまえで方便からうそをついてしまった時、感情的にふるまってしまったとき、
あるいは、素っ気無い対応をしてしまったとき、


「なぜ、今日、わたしはあのひとの前で、あんなふうな『お返し』をしてしまったのか?」


と寝入る前に自問自答してしまうことはあるでしょう。

そんな時に、responsibility(責任)を裏切ってしまったことへの

blame(責め)に苦しめられます。

「あの時、ああいうように答えていれば…もっと早く、適切に言っていれば…」
と、別のことば、別のシナリオで贖罪の機会を得ることばかり考えてしまうのです。

災いの元である口を鎮火するのではなく、さらに別の着火点を探すことに血眼になってしまう…
なにか、ことばを…、あのことばを打ち消すための、別のことばを…と。


ひとはふつうことばの不在をおそれる。 ことばが途切れたとき、そして、どちらからもその不在を埋めることばが
でてこないときの気まずい沈黙。そのとき、
なにかそれまでの関係がすべて作りものであったかのように、色褪せて来る。 他者の親密な感触というものが、あっけなく崩れる。 その不在の前で、じぶんの存在すらも、へちまのようにかすかすになっている… ひとはこういう空虚に耐えきれず、どうにかしてことばを紡ぎだそうとする。 だれかが話しているのかじぶんでもわからないようなことばが、
次から次へと虚空に向かって打ち放たれる。
が、そのことばは相手のうちに着地することなく、
かといってじぶんのもとへと戻ってくるわけでもなく、 ただ空しい軌跡を描くばかり…。 そしてことばではなく、その不在がしらじらとあらわになってくる。 唾が枯れたときにそれでも唾を吐き出そうとして、血痰を出してしまうかのように。
そしてじぶんは、一刻でもはやく、その場を逃れたがっている。 『「聴く」ことの力』

 

「黙っていること」は一体、どうやったらできるでしょうか。

ただじっと、相手の眼と動作をみつめながら黙っている、という経験。
ことばを出そうとしても、出てこない、でもそれで必要十分だという、豊饒な時間と空間。 耳を澄まさずとも、相手の息づかい、呼吸というものが聞こえてくる間合い…


この困難を僕が初めて考えるようになったのは、
前の学生時代、大学の授業で演劇のワークショップに参加した時です。
そのなかで、グループである既定の脚本を改作し、皆の前で小芝居を発表するという課題がありました。
既定の脚本というのは、乗り合い列車での一場面で、
ある一人が二人向かい合わせの席に座っていて、その向かいの空席に二人組が乗り合わせる、 という設定です。
注意すべきは、ここでは三人の間でどんな対話が紡ぎだされるか、が課題ではなく、
どんなドラマが展開されるか、が課題なのです。



(2人組)「ちょっと、ここの席空いてますよね?」

(向かいの先客)「ええ…(手元の雑誌に目を落としながら)」

(2人組A)「ありがとうございます、よかったね、丁度2人分空いてて」

(2人組B)「うん。 あ…」
(向かいの一人の顔を見て、何か思い当たる。が、言い出せない。
 先客は全く気づかず、相変わらず雑誌を気ままに読む一方)




さて、この後、がいわゆるドラマなわけですが、
そこからが芝居をつくる練習。

先客の顔を見つめて、何か思い出す…
もしかしたらBにとっての、昔の恋人か、初恋の人か。
それとも、非常な裏切りをしてしまった相手か、
あるいは、生き別れた兄弟の面影が忍ばれたりするかもしれません。
(その設定も学生側に任されています)

相手は気づいていない、しかしじぶんは気づいている…
その相手は、じぶんにとってはかなり特別な、気になる存在。
気安く話しかけられないが、話しかけたくてしょうがない…

けれども、また隣にいる連れ(友達?恋人?仕事仲間?それも設定は自由です)
との距離感も大切にしなければならない。
もしかしたら、展開次第で連れとの関係が壊れるかもしれない…

話しかけたとしても、向こうがよそよそしかったら?
気まずい沈黙が三人のあいだに流れたら?


僕はBの立場に立った身としては、
本当は黙っていたい、と思うのです。
相手を見つめて、想像し、彼や彼女とのまさかの邂逅に驚きながら、じわじわと喜んでいたい。
あるいは、相手がじぶんに気づかなかったら、
軽い世間話をして、昔を懐かしむくらいの余裕を見せれたらな、と。
窓の風景を見ながら、実は風景を見ていなくて、
そこに映った彼や彼女の顔をじっと見つめていたい。


ところが、ここで敢えて「演技」をしてしまうのが、僕の偽らざる日常であって、
見知ってる顔があるやいなや、がやがやと議論を始めたくなる、
そのうずうずに堪え切れない。
相手と視線がかち合うと、その眼光に堪えられない。
だからことばを持ち出す。
もし相手との会話が途切れてしまったら、
政治や経済や学問や芸術や、芸能三面記事の皮相な諸事を持ち出し、
ナンセンスなとりとめのない会話を続けるという痴態を晒すのです。

本当は、そのすんでのところで我慢しているのです。
けれども、沈黙という濃密な時空間に気圧されて、
自ら希釈したくなる誘惑に負けるのです。

丁度、あれでしょうか、じぶんとは合わないな、と思う異性に対して、
会話を続行するのが困難なのに、会話のなかで打開を図ろうとして、
ますます失敗してしまうような、あのとてつもなく気まずい感覚…


他にも、演劇のワークショップや
臨床コミュニケーションの授業でやったレッスンで、
沈黙すること、その恐怖を感じることはありました。

例えば、医師の立場で患者とその家族にがんの告知をするというもの。
もちろん飽くまでロールプレイですから、専門知識の議論は抜きにして、
ぶっつけでやってみる対人的な実験と捉えてよいでしょう。
何を言うか、どんな顔や、身振りで言うのか…
演技側は、仕事と割り切って淡々とできるひともいれば、
(身内に経験があるせいか)思わず、感極まってしまうひとも。
そして、告知の後の長い沈黙に耐え切れず、なんとかことばを紡ごうとするひと…

究極のシチュエーションでは、各々の人生観、腹の底が垣間見えます。
素人演技ですから、それだけ一層際立つわけです。
同時に、演劇の経験をしてみると、今まで全くの無自覚であった日常行為が反省されます。
なぜ、その所作をじぶんがやるのか、とじぶんに徹底的に問い、しかる後に
それをかっこに入れて、忘れたように動いてみる。
そのようにしてみないと、少なくとも僕はじぶんのなかで演技に迫真性が生まれる
気配もありません。

考えたようにして、考えないでやる…難しい。。

とまあ、素人の感想ですが、また機会があれば、
こういうワークショップや小芝居に参加してみたいと思います。

さて、話を黙ることに戻しましょう。


引用元である鷲田清一も引いてますが、
黙ることに耐え切れない仕方で生活していると、
寺山修司の警句が痛烈に響いてきます。

 


わたしたちがいま失いかけているのは 「話し合い」などではなくて「黙りあい」ではないのか。
かつて寺山修司はそう問うた。そして、週刊誌やテレビなどのメディアをとおして
大きなコミュニケーションが膨れあがればあがるほど「沈黙はしんでゆく」、
「黙っていられない」ひとたちが増えていく……として、次のように書いた。

 彼等はつぎつぎと話し相手を変えては、より深いコミュニケーションを求めて裏切られてゆく。 そして、沈黙も饒舌も失ってスピーキング・マシーンのように「話しかける」ことと「生きること」とを
混同しながら年老いてゆくのである。
(「東京零年」)

『「聴く」ことの力』


僕は一時期、喫茶店や酒場での二人っきり(主な間柄は親友、親子、恋人、上司部下など)
を観察していることに凝っていて、
沈黙や間の使い方の下手さ、上手さを勉強していました。
会話の内容とかには余り興味がなくて、
どのような、間を取って、顔や仕草を変えるのか、が観察の対象。

観察して分かったことことの一つに、(当たり前のことですが)
「黙りあい」は会話の緊張と緩和という面できわめて重要なファクター
を担っている、ということがあります。


相談事を持ちかけて喋り続けていた一方が黙り、
他方もそれを受けとめて、黙って考える。
しばし間があって、その後に、ぽつりぽつりと言葉が交わされ、
知らず知らず、問題が解決されたり。

あるいは、初デートらしく、
これまで妙によそよそしかったカップルが、
おしゃべりのためのおしゃべりを止め、
沈黙のうちに眼差しを交し合ううちに妙に気持ちを高ぶらせたり。

沈黙の後で、これまで相手には言えなかったこと、
照れて言えなかったこれまでの感謝の気持ち、
じぶんに隠しきれなかった罪の告白…
そのような不思議な瞬間が「黙りあい」の内に突如としてやってくるのです。
その静かな感動的な場面は、別に映画やテレビのなかの世界ににあるわけではありません。
注意して観察すれば、劇的な効果を生んでいることが見てとれます。


けれども、そのようなコミュニケーションを目の当たりにすることは希少です。
ほとんどの会話は、buzzであり、noiseであり、あっという間に過ぎ去っていくpastimeなのでしょう。

どのようにしたら、黙ることができるのか、
相手の言葉とじぶんのことばを咀嚼し、反芻し、次のことばとの間を持たせることがきるのか。
responseのためのresponse「お返し」の応酬に躍起になってあくせくしていると、
つい、相手が黙てしまうときに、イライラしてしまうことがあります。
メール返信がちょっと間延びしただけで、約束が反故にされたと考えてしまう。
あるいは、逆に「お返し」をしたかどうか、相手の機嫌を損ねてないかと、
気になって仕方がなくなる。
…僕自身そういう傾向は否めません。


「語りえぬことについては沈黙しなければならない」

という、有名な哲学者のことばがあります。
これは彼が考える論理空間の世界についてであって、
日常生活でニヒルを気取ることばでありません。
しかし、あえて日常の対話空間に即していうならば

「語りあえぬことについては、沈黙しなければならない(こともある)」

ということになるでしょうか。
もちろん、これはルールでも道徳命令でもありません。
あくまで(こともある)だけ。
こころの片隅にとどめて置くことばです。
けれども、これこそ相手への泥臭いながらも、どこまでも誠実な態度表明ではないか、と僕は考えます。
そして、寺山修司ではありませんが、
マスであれ当人同士であれ、今後コミュニケーションの貧困が叫ばれるなか、
沈黙という対話技法は、最後の防波堤たりうるのではないかと、ひそかに思うのです。


先ほど黙りあいの美点めいたものを書きましたが、
そんなのは、実際は取るに足らないほどのものです。
しかも黙ったからといって、何も解決していませんし、
それで状況が好転するわけではありません。

けれども、相手の前でときに答えず、ただ聴く耳を持ち、
そして沈黙する勇気を持つことを、貴重にしたいと思うのです。
弁が立ち、気が利くような「お返し」がじぶんには 他の人に比べて下手なら、いったいどうすればいいのか。


のどに出掛かったことばを抑えて、黙る、聴く、
そういうギリギリのラインで闘うこと。
論理ではなく、情念として踏みとどまること。
こういう覚悟を持って、でも、諦めも半ば同居させて、
ひととことばで遣り合っていく仕方を学ぶには…どのようにすれば…?
そうボンヤリと考えていたことを、今日は書きました。


僕の中には、
「ひとが黙ってて、ただひとの話を聴いている、
けれども、時間が流れるのではなく積み重なっていき、
ふたりの関係はどんどん濃くなっていく」
というような場面に対して、一種の憧憬のようなものがあります。
(昔のサントリーのウイスキーのCMが一番近いかも)


それは、多分小さいころに見聞きして感動した経験がモデルなのでしょう。
あまりよく覚えていないのですが、今は亡き祖父母とのやりとりが中心なのかもしれない。
今後も黙ること、あるいは待つことはじぶんのルーツを探る上でも、
探求の中心課題になりそうです。


最後に、どうしても残しておきたい引用を一つ。

小さなモモにできたこと、それはほかでもありません、
あいての話を聞くことでした。
なあんだ、そんなこと、とみなさんは言うでしょうね。
話を聞くなんて、だれにだってできるじゃないかって。 でもそれはまちがいです。
ほんとうに聞くことのできる人はめったにいないものです。
そしてこのてんでモモは、それこそほかにはれいのない すばらしい才能をもっていたのです。 モモに話を聞いてもらっていると、 ばかなひとにもきゅうにまともな考えがうかんできます。 モモがそういう考えをひきだすようなことを言ったり、 質問したりした、というわけではないのです。 ただじっとすわって、注意ぶかく聞いているだけです。 その大きな黒い目は、あいてをじっと見つめています。 するとあいてには、 じぶんのどこにそんなものがひそんでいたかとおどろくような考えが、 すうっとうかびあがってくるのです。 ミヒャエル・エンデ『モモ』